才知と魅力あふれる25歳の編集者が、自らこの世を去るまでの約2年間の日記。
帯に解説の穂村弘の言葉が使われていて、私はわりと彼のファンなので、それで買ってみた、というようなところがあります。でものっけから惹き込まれ、1日で一気に読んでしまいました。
著者は1977年生まれなので私の八つ下。早稲田を出て国書刊行会、のちに毎日新聞社の書籍編集者として働き、26歳になる直前で自らこの世を去った女性のようです。書評を書くためにつけたこのペンネームで日記をネットで更新していたらしく、そのサイト名がこの書名になっているようです。これはその日記をまとめた本のようですね。「ようです」ばかりなのは、この本が日記と、生前親交があった作家などから没後に寄せられた文章だけでできていて、解説にも解題めいたことがほとんどないので、私が勝手に類推したからです。
日記というものはすべて誰かに読まれることを前提に書かれている、たとえ読む者が自分ひとりだけだったとしても…というようなことが、よく言われていると思います。ましてこれはネットに公開されるべく書かれたものなのですから、真実そのものではもちろんないのでしょう。それでもこの日記を読めばすぐに、スレンダーな体型でちょっととんがったお洒落をした、コスメフリークで香水好きで人形とお酒を愛し、哲学と宗教と幻想文学とエロティシズムとSFに耽溺する、キラキラした瞳の若い女性の姿が立ち上がってきます。神保町の古書店街をよく訪れていたようだし、私はどこかで絶対に彼女とすれ違っていたことでしょう。喫茶店で隣の席だったこともあったかもしれません。興味や守備範囲は私とは違うところも重なるところもいろいろだけれど、映画館や劇場で同じ回を観ていたかもしれない、とも思いました。後輩だったら、親しくしたかった。可愛がりたかったし、いろいろ教えてもらいたいと思ったことでしょう。ただし向こうに、話すだけの価値がある相手と思ってもらえたかは自信がありません。なんせ生まれてから過ごした日数より多い数の本を読んできた、という本の虫です。そしてその広く深い思索のあともまた、この日記にはくっきりと表れています。
しかしこの膨大な引用は、どうしていたのだろう…いちいち打ち込んでいたのかな。電子書籍のデータからコピペ…が、まずできなさそうな本ばかりから引かれているんですよね。私にとってこういう引用癖って、海外小説なんかで衒学的なキャラクターがやるものとしてしか見たことがほぼないので、実際にこういう人がいるのか…という思いは、しました。そして日を追うごとにお買い物とか読書記録は減っていき、引用ばかりが増えていく…それは、自死を正式に(?)考え始めてから、より顕著になっていったということなのでしょうか。
私は、なんせ弱虫なのでつらかった記憶を自ら改竄しているだけなのかもしれませんが、思春期とかそれ以前とかの最も煮詰まっていた時期にすら、真剣に自殺を考えたり、ましてトライしてみたりしたことはまったくありません。社会人になってからも、理不尽なことに怒ったり仕事が上手くいかなかったり上司と合わなかったり恋人ともめたりで悩んだことももちろんありましたが、死にたいと考えたことは一度もなかったです。今も基本的には健康で楽しく、宝塚歌劇150周年を観るべく生きていきたいと思っています。
日記を読んでいて、繊細すぎるとか柔弱だとか病的だとかは、特に思いませんでした。引用が増えていくのも、壊れていくとか病んでいくとかの表れだとも感じませんでした。ただ、明らかに読み手がいるネットでこうした日記を公開し、その一方で自ら死ぬことを突き詰めていったりすることって、どういうことなんだろう…という困惑は感じました。
また、もっと直接に自殺について語り合っていたと思われる先輩読書人とのメールのやりとりも引用されたりしているので、それはどうなんだろう…とまたまた困惑しました。止めてほしいということなのか、わかってほしいということなのか、どれも当たらないものなのか…?
私は祖父母とあまりべったりした親交がなく、かつ早いうちに亡くしていて、以後すごく親しい人とか近しい人を亡くした経験がありがたいことにほぼないので、死というものをどう捉えていいのかよくわからなくて本当に怖いし、まして自殺などは本当にショックというか混乱するだろうな、と想像するだけで怯え震えています。もちろん一番つらいのは当人なのだ、ということもよくわかっているつもりなのですが…
彼女は何に祈り、何を求め、何から逃げようとして何に抗い、何を得ようとして何に勝とうとしていたのでしょう? それは彼女自身だけのもので、誰からの理解も拒むものなのかもしれませんが、想いをはせずにはいられません。望みが叶ったのならよかったね、と言ってあげるべきなのかもしれませんが、それもわからない、ただただ怖くて悲しいです。そして、それでも、この魂の軌跡を読ませていただいたことには感謝したいなと思うのでした。これは公開されたものだから、覗き見なんかではないし、死者の冒涜にも当たらないと思うので。そして彼女が読んだ本のごくごく一部でも、自分でも読んでいきたいと思ったのでした。
帯に解説の穂村弘の言葉が使われていて、私はわりと彼のファンなので、それで買ってみた、というようなところがあります。でものっけから惹き込まれ、1日で一気に読んでしまいました。
著者は1977年生まれなので私の八つ下。早稲田を出て国書刊行会、のちに毎日新聞社の書籍編集者として働き、26歳になる直前で自らこの世を去った女性のようです。書評を書くためにつけたこのペンネームで日記をネットで更新していたらしく、そのサイト名がこの書名になっているようです。これはその日記をまとめた本のようですね。「ようです」ばかりなのは、この本が日記と、生前親交があった作家などから没後に寄せられた文章だけでできていて、解説にも解題めいたことがほとんどないので、私が勝手に類推したからです。
日記というものはすべて誰かに読まれることを前提に書かれている、たとえ読む者が自分ひとりだけだったとしても…というようなことが、よく言われていると思います。ましてこれはネットに公開されるべく書かれたものなのですから、真実そのものではもちろんないのでしょう。それでもこの日記を読めばすぐに、スレンダーな体型でちょっととんがったお洒落をした、コスメフリークで香水好きで人形とお酒を愛し、哲学と宗教と幻想文学とエロティシズムとSFに耽溺する、キラキラした瞳の若い女性の姿が立ち上がってきます。神保町の古書店街をよく訪れていたようだし、私はどこかで絶対に彼女とすれ違っていたことでしょう。喫茶店で隣の席だったこともあったかもしれません。興味や守備範囲は私とは違うところも重なるところもいろいろだけれど、映画館や劇場で同じ回を観ていたかもしれない、とも思いました。後輩だったら、親しくしたかった。可愛がりたかったし、いろいろ教えてもらいたいと思ったことでしょう。ただし向こうに、話すだけの価値がある相手と思ってもらえたかは自信がありません。なんせ生まれてから過ごした日数より多い数の本を読んできた、という本の虫です。そしてその広く深い思索のあともまた、この日記にはくっきりと表れています。
しかしこの膨大な引用は、どうしていたのだろう…いちいち打ち込んでいたのかな。電子書籍のデータからコピペ…が、まずできなさそうな本ばかりから引かれているんですよね。私にとってこういう引用癖って、海外小説なんかで衒学的なキャラクターがやるものとしてしか見たことがほぼないので、実際にこういう人がいるのか…という思いは、しました。そして日を追うごとにお買い物とか読書記録は減っていき、引用ばかりが増えていく…それは、自死を正式に(?)考え始めてから、より顕著になっていったということなのでしょうか。
私は、なんせ弱虫なのでつらかった記憶を自ら改竄しているだけなのかもしれませんが、思春期とかそれ以前とかの最も煮詰まっていた時期にすら、真剣に自殺を考えたり、ましてトライしてみたりしたことはまったくありません。社会人になってからも、理不尽なことに怒ったり仕事が上手くいかなかったり上司と合わなかったり恋人ともめたりで悩んだことももちろんありましたが、死にたいと考えたことは一度もなかったです。今も基本的には健康で楽しく、宝塚歌劇150周年を観るべく生きていきたいと思っています。
日記を読んでいて、繊細すぎるとか柔弱だとか病的だとかは、特に思いませんでした。引用が増えていくのも、壊れていくとか病んでいくとかの表れだとも感じませんでした。ただ、明らかに読み手がいるネットでこうした日記を公開し、その一方で自ら死ぬことを突き詰めていったりすることって、どういうことなんだろう…という困惑は感じました。
また、もっと直接に自殺について語り合っていたと思われる先輩読書人とのメールのやりとりも引用されたりしているので、それはどうなんだろう…とまたまた困惑しました。止めてほしいということなのか、わかってほしいということなのか、どれも当たらないものなのか…?
私は祖父母とあまりべったりした親交がなく、かつ早いうちに亡くしていて、以後すごく親しい人とか近しい人を亡くした経験がありがたいことにほぼないので、死というものをどう捉えていいのかよくわからなくて本当に怖いし、まして自殺などは本当にショックというか混乱するだろうな、と想像するだけで怯え震えています。もちろん一番つらいのは当人なのだ、ということもよくわかっているつもりなのですが…
彼女は何に祈り、何を求め、何から逃げようとして何に抗い、何を得ようとして何に勝とうとしていたのでしょう? それは彼女自身だけのもので、誰からの理解も拒むものなのかもしれませんが、想いをはせずにはいられません。望みが叶ったのならよかったね、と言ってあげるべきなのかもしれませんが、それもわからない、ただただ怖くて悲しいです。そして、それでも、この魂の軌跡を読ませていただいたことには感謝したいなと思うのでした。これは公開されたものだから、覗き見なんかではないし、死者の冒涜にも当たらないと思うので。そして彼女が読んだ本のごくごく一部でも、自分でも読んでいきたいと思ったのでした。
私は昨日この本を読み(穂村さんの書評からです)、とてもショックを受けて、他の人の感想を探してこちらにたどりつきました。
著者の知識量に圧倒され、人形などの美しい描写にときめきながらも、ショックが消せませんでしたので、駒子さんの感想を読めて、現実に戻れたようでほっとした次第です。
私も、生きて、少しずつでも読んでいこうと思いました。
文庫刊行当時、やはり同業者でショックだったという友と語り合ったことを思い出しました。
こんなに才気ある、お若い人が何故…というのはありますが、
その分も、というのもおこがましいですが、私たちは生きて、自分の生を生きて、
彼女ほどではないにせよ読んで、感じ考え、また生きていきたいですよね。
改めて著者のご冥福をお祈りいたします。
●駒子●