世田谷パブリックシアター、2005年4月14日ソワレ。
新雑誌のグラビア・モデルに新妻ルル(秋山菜津子)を選んだ編集長ゴル(小田豊)。カメラマンのシュバルツ(みのすけ)が撮影するスタジオには、詩人ゲシュヴィッツ(根岸季衣)の他、雑誌を出す新聞社社長シェーン(古谷一行)、その息子で舞台演出家のアルヴァ(増沢望)が訪れる…原作/F・ヴェデキント(ルル二部作『地霊』『パンドラの箱』)、構成・演出/白井晃、脚本/能祖将夫、音楽・映像/nido。全2幕。
あまりほめていない新聞評を読んだのですが、非常に緊密で緊迫した、おもしろい舞台だったと思いました。
ファム・ファタールであるルルと、彼女に関わって転落していく男たちの物語である、とか、社会規範を体現する男たちと自由の象徴である女ルルとの物語である、とか、「女はわからない、魔性だ、罰せられるべきだ」というお話である、とか、いろいろな見方ができるかと思いますが、私は、ごく普通の女と男の物語かなあ、と感じました。そしてだからこそそのすれ違いが悲しく、せつないなあ、と。
確かにルルはつきあう相手を次々と替えていくかもしれないけれど、それは男の側のせいでも彼女のせいでもなく、ただたまたまの流れ、というふうに見えるとも思うのです。そして彼女が本当に愛していたのは、というか執着していたのは、と言ってもいいけれど、とにかく一番こだわっていたのは、養い親で初めての男であるジゴルヒ(浅野和之)の次に出会った男、つまり心理的には彼こそが「初めての男」であるシェーンだったのではないでしょうか。
これは彼女のシェーンへのある種の「純愛」の物語だと言えると思うのです。だけどシェーンはルルとの結婚をずっとずっと避けてきた。別の男をあてがうような真似までした。そして結局ゴルとシュバルツの次にルルの夫となったのだけれど、ルルはもはやこれまでの生き方を変えられず、シェーンは幸せにはなれず、そして愁嘆場が訪れる。
第二幕に入って、ルルは輝きを失います。本当の愛を失った彼女に残された道はただ墜ちていくことだけだから。ルルが、シェーンと二役で演じる古谷一行の切り裂きジャックに殺される幕切れには、男性である原作者の悪意を感じなくはないですが、エピローグでの、下手にシェーンが、上手にその他の全員が立ち、その間を歩いて来るルルが結局はシェーンとすれ違って終わるシーンが、なんとも言えず心に残りました。テーマはここに集約されているのではないでしょうか。
また、男性作者の一方的な見方と言い切りづらいのがゲシュヴィッツのおもしろい立ち位置です。ルルを本名で呼んだのはジゴルヒと彼女だけで、他の男たちはすべて自分の呼びたいように彼女を呼んだ、というのは象徴的です。ゲシュヴィッツはレズビアン的な友情をルルに捧げるのだけれど、女友達が究極的に男性に対抗するにはそれしかないかもしれないからです。オープニングの時点では、私は彼女はたとえば古谷一行の役の妻でルルに嫉妬するような役なのかと思ったのですが、もっと根深かったのでした。
場と場の間を不思議なダンスと映像が心象風景を描いてつなぐ構成で、素敵でした。舞台装置も良かったです。
決して単純でない掛け合いの多いセリフがどれも明晰に語られて聞きやすかったのも良かったです。それからなんと言っても配役がいいというか、どの役者もその役に見えました。すばらしい!
育ちがいい好青年のアルヴァ、脂ぎった駄目中年っぽいゴル、大人になりきれていないようなシュバルツ、ヤクザなロドリーゴ(石橋祐)、いやらしげな貴族エスツェルニー(岸博之。二役でルルが溺れるジゴロのカスティ・ピアーニも演じていてこれまた別の感じでいやらしくて秀逸)、周りが全然見えていないお坊ちゃんのフーゲンベルク(まるの保)…
そして、ルル。とりたてて小悪魔ふうでも、悪女ふうでもなくて、生い立ちにひねることなく、けっこう屈託なくのびのびと生きていて、ただ思ったような愛が手に入らなくて焦れているだけの、ごく普通の生きのいい女性に見えて、好感が持てました。それこそがルルの真実の姿だったのではないでしょうか。細くてしなやかでだけどぴちぴちの若い娘というわけでは決してない秋山菜津子の肢体の感じが本当にそれっぽくて、見惚れました私。助平ですみません…
新雑誌のグラビア・モデルに新妻ルル(秋山菜津子)を選んだ編集長ゴル(小田豊)。カメラマンのシュバルツ(みのすけ)が撮影するスタジオには、詩人ゲシュヴィッツ(根岸季衣)の他、雑誌を出す新聞社社長シェーン(古谷一行)、その息子で舞台演出家のアルヴァ(増沢望)が訪れる…原作/F・ヴェデキント(ルル二部作『地霊』『パンドラの箱』)、構成・演出/白井晃、脚本/能祖将夫、音楽・映像/nido。全2幕。
あまりほめていない新聞評を読んだのですが、非常に緊密で緊迫した、おもしろい舞台だったと思いました。
ファム・ファタールであるルルと、彼女に関わって転落していく男たちの物語である、とか、社会規範を体現する男たちと自由の象徴である女ルルとの物語である、とか、「女はわからない、魔性だ、罰せられるべきだ」というお話である、とか、いろいろな見方ができるかと思いますが、私は、ごく普通の女と男の物語かなあ、と感じました。そしてだからこそそのすれ違いが悲しく、せつないなあ、と。
確かにルルはつきあう相手を次々と替えていくかもしれないけれど、それは男の側のせいでも彼女のせいでもなく、ただたまたまの流れ、というふうに見えるとも思うのです。そして彼女が本当に愛していたのは、というか執着していたのは、と言ってもいいけれど、とにかく一番こだわっていたのは、養い親で初めての男であるジゴルヒ(浅野和之)の次に出会った男、つまり心理的には彼こそが「初めての男」であるシェーンだったのではないでしょうか。
これは彼女のシェーンへのある種の「純愛」の物語だと言えると思うのです。だけどシェーンはルルとの結婚をずっとずっと避けてきた。別の男をあてがうような真似までした。そして結局ゴルとシュバルツの次にルルの夫となったのだけれど、ルルはもはやこれまでの生き方を変えられず、シェーンは幸せにはなれず、そして愁嘆場が訪れる。
第二幕に入って、ルルは輝きを失います。本当の愛を失った彼女に残された道はただ墜ちていくことだけだから。ルルが、シェーンと二役で演じる古谷一行の切り裂きジャックに殺される幕切れには、男性である原作者の悪意を感じなくはないですが、エピローグでの、下手にシェーンが、上手にその他の全員が立ち、その間を歩いて来るルルが結局はシェーンとすれ違って終わるシーンが、なんとも言えず心に残りました。テーマはここに集約されているのではないでしょうか。
また、男性作者の一方的な見方と言い切りづらいのがゲシュヴィッツのおもしろい立ち位置です。ルルを本名で呼んだのはジゴルヒと彼女だけで、他の男たちはすべて自分の呼びたいように彼女を呼んだ、というのは象徴的です。ゲシュヴィッツはレズビアン的な友情をルルに捧げるのだけれど、女友達が究極的に男性に対抗するにはそれしかないかもしれないからです。オープニングの時点では、私は彼女はたとえば古谷一行の役の妻でルルに嫉妬するような役なのかと思ったのですが、もっと根深かったのでした。
場と場の間を不思議なダンスと映像が心象風景を描いてつなぐ構成で、素敵でした。舞台装置も良かったです。
決して単純でない掛け合いの多いセリフがどれも明晰に語られて聞きやすかったのも良かったです。それからなんと言っても配役がいいというか、どの役者もその役に見えました。すばらしい!
育ちがいい好青年のアルヴァ、脂ぎった駄目中年っぽいゴル、大人になりきれていないようなシュバルツ、ヤクザなロドリーゴ(石橋祐)、いやらしげな貴族エスツェルニー(岸博之。二役でルルが溺れるジゴロのカスティ・ピアーニも演じていてこれまた別の感じでいやらしくて秀逸)、周りが全然見えていないお坊ちゃんのフーゲンベルク(まるの保)…
そして、ルル。とりたてて小悪魔ふうでも、悪女ふうでもなくて、生い立ちにひねることなく、けっこう屈託なくのびのびと生きていて、ただ思ったような愛が手に入らなくて焦れているだけの、ごく普通の生きのいい女性に見えて、好感が持てました。それこそがルルの真実の姿だったのではないでしょうか。細くてしなやかでだけどぴちぴちの若い娘というわけでは決してない秋山菜津子の肢体の感じが本当にそれっぽくて、見惚れました私。助平ですみません…
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