駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『記憶ティアラ』マイ初日雑感&再びのトップ娘役絶対必要論

2024年08月26日 | 日記
 初日が開いて一週間、宝塚歌劇星組大劇場公演『記憶にございません!/Tiara Azul』を観劇してきました。
 原作映画は未見。三谷幸喜氏自身がプログラムに書いていますが、彼の作品は舞台より映画はライトなので、まあそれをさらにダーイシがどこまでいじってくるかによるかな…など思いつつ、とりあえずフラットに観ました。わりと映画まんまだったらしいですね? 田原坂46以外は、かもしれませんが…これもご当地アイドルというよりは選挙のキャンペーンガールみたいな感じで、まあまあ意味も出番もあり、楽しかったのでよしとしましょう。
 プロローグが今の政治や総理に不満を抱く民衆の声ソングで、そこからセットがハネたら大階段で、組閣のときによく見る赤絨毯の階段になっていて、大臣らしきスーツ姿の男女がバリバリ踊ってトンチキな「献金マンボ」を歌う…まあ、つかみはオッケーでしたね(笑)。その後も、暗転は多いかなとは思いましたが、それなりに上手く舞台化できていると思いました。わりとみんなに役があるのがいいな、とも思いましたしね。
 そもそもの映画からして、政治風刺の意図はなく、単なる政権コメディ、群像人情喜劇として作られているわけで、現実の政治がもはや笑い事では済まない事態になっていることを考えるとちょっとどうなんだ、と思わなくはないのだけれど、でもやっぱりそれを描くのは宝塚歌劇の役割ではないなとも思うので、そう割り切って観れば、こっちゃんの上手さ、達者さ、チャーミングさが光り生かされた、良き演目に仕上がっていたかと思いました。ちょっと『食聖』なんかにノリが似ているというか…こういうわちゃわちゃした群像コメディが今の星組は上手いんだな、と感じました。あと、現代ものなんだけどファンタジー、みたいな塩梅もちょうどいい気がしました。ざらりとした気にさせられるところもないこいもないことも含めて、ですが…
 私が意外に萌えて、かつおもしろく観てしまったのがありちゃん井坂(暁千星)さんとひっとん聡子(舞空瞳)さんの不倫ターンです。これは映画ママなんでしょうが、宝塚版ではカットされるのでは?など予想されていたかと思います。でもがっつり浮気していて(笑)、でもそれが自然だし当然だしなんかフツーですごくよかったんですよね。だって記憶をなくす前の黒田(礼真琴)さんってホント嫌な奴だったんだろうし、息子もほぼ育ち上がってて嫁の義務は果たしたんだし、関係が冷え切っているなら浮気のひとつやふたつしない方がむしろ不自然でしょう。聡子が、それでも彼を好きだから帰りを待つの…みたいなキャラにされていなくてむしろよかったです。
 聡子が井坂にどこまで本気なのか、とかはよくわかりませんでしたが、そのグダグダ具合も私にはちょうどよく見えました。アルゼンチンとかタンゴ云々とかも原作にあるのかな? とまれそんな縁があって、かつ夫の首席秘書ということでまあまあいつも近くにいて会うのに便利なんだろうし、ついしなだれかかっちゃって、井坂さんの方でも抵抗しとおすのも面倒でつい…って感じで後悔しているような、仕方ないかと思っちゃってもいるような…ってテキトーな感じが、わりとリアルですごくいいなと思ったのです。井坂さんも以前の黒田さんのことは仕えていても人間として嫌いだったんでしょうし、ぶっちゃけ仕事もできない男だと見下していたんでしょうが、その異種返しとか暗い復讐みたいな側面があまりなさそうな感じが、またよかったです。私がクール眼鏡スーツ男キャラが好みってのもありますが、ありちゃんの井坂さんが冷酷になりきれていない、かといって人間臭すぎもしない、絶妙なしょーもない感じでフラフラしそうなところを懸命にスッキリ立って見せているような感じだったのに、きゅんとしたのかもしれません(笑)。
 あと、ちゃんとダブル不倫なのもよかった(笑)。ひとつの場面で上下に区切って並行で見せるのはよかったですね。まあこのときの黒田さんには記憶がないので、ややかわいそうではありますが…前日に月組全ツ梅芸公演『琥珀色の雨にぬれて』を観たんですけれど、1920年代のフランスの四角関係がロマンチックで、令和(かな?)の日本のそれがダメってのはないだろう、と考えたというのもあります。男性の、とか男役の名誉?を取るならカットするとかマイルドにするとかもありえたのかもしれませんが、ダーイシの露悪っぷりなのかやっぱりある種のミソジニーの発露なのかはたまた何も考えていないのか、そのままやっていて客席もまあまあ笑っていたので(ホンと言うとマジョリティはフツーの主婦なんじゃないの?と思うと、こっそり青筋立てられてるのかもな…とも案じはしますが)、よかったのではないでしょうか。ギリギリの品もあったと思いますしね。
 記憶を取り戻した黒田さんが、記憶がなかったころの純粋さや真面目さも混ぜた新人格の黒田さんになって、心機一転やり直し、聡子さんともやり直したいと願い井坂さんに「妻と別れてくれ」と言う…というのも、情けないっちゃ情けないギリギリでしょうしそれこそ宝塚歌劇でなかなか観ないシチュエーションですが、こっちゃんがやっぱり上手くてちゃんと笑いを取るし、なんとなくほのぼのよかったね、とみんな丸く収まる感じになるのは、やはりトップコンビの魔法があるからだと思うのですよ…!
 なので、ひっとんの後任は立てない、という発表翌日の観劇だったのですが、「六人のオンナ」の場面はしょんぼり観ることになりました…妻のひっとんはともかくとして、ここで黒田さんを囲むのは家政婦の白妙なっちゃん、愛人の小桜ちゃん、秘書のうたち、政敵(?)のルリハナ、元カノ?の都優奈ちゃん…他にも田原坂に今回新公ヒロインの綾音美蘭、新公ヒロイン経験者のひよりんとなのたんがいるというこの多士済々の中で、誰も、ダメなんだ…?って気にさせられるじゃないですか…それは、ないよ……後述。

 カルナバル・ファンタジアは竹田悠一郎先生の大劇場デビュー作。とーってもよかったです! お祭りものは鉄板ではありますが、とても景気のいいショーで、終始楽しく観ました。アルゼンチンのグアレグアイチュ(ってどこ???)で行われているカルナバルからインスピレーションを得たのだとか…
 お祭りに、山車を出してグループで踊りまくるようなダンスチームの、お祭り当日の昼間から夜の本番、そして翌朝まで…といった一応の流れはあり、こっちゃんルカ、ひっとんエリアナ、ありちゃんイグナシオ…という通し役があるような、まあでもプロローグやフィナーレはないっちゃないような…なんですが、とにかく景気が良くて観ていてだんだんハイになって細かいことがどーでもよくなるタイプのショーで、楽しかったからいいのです(笑)。羽飾りがふんだんに使われて、ダルマもガンガン出てきて、ホッタイアレンジかな?のギラギラお衣装やらトンチキお衣装までゾロゾロ出てきて、進化系ひき潮みたいな裸足のデュエダンに泣かされ、フィナーレのデュエダンはこれまでアクロバティックな競技ダンスみたいなバリバリしたものを踊ってきたふたりがゆっくりと、空気を抱き合い動かし合うような、流れるように美しくシンクロする綺麗な振りを踊り、最後に銀橋に出てきて、こっちゃんがティアラをひっとんの頭に乗せる…ハイ、百億点です。
 あと、基本的には小桜ちゃんとシンメでしたが、でもやっぱり二番手娘役格はうたちだったと思うのよ…なんでダメなのよ、何がダメなのよ…正直、こっちゃんがゴネてるの?と邪推してしまう…だってきぃちゃんにもくらっちにもNG出したんでしょうからね。てかそもそも当人が卒業したがっているのを劇団が慰留しているんだとは思いますが…じゃあもういいじゃん、ありうたちかりん政権になっても問題なくない??
 そのありちゃんですが、二番手スターのセンター場面でショーの名場面って生まれていくものだと思うのですけれど、今回のタンゴはマジで絶品でした! こっちゃんとはまた違ったタイプのダンサーなんですよね、そして下級生のころにやたらただ踊らされていたのとは全然違う踊りが、いまやできるようになっているんですよこれは全ファンが惚れ直すヤツ…!! いやぁ圧巻でした。
 早くまた観たい! 次回は月バウとハシゴで行きます!! 台風、遠慮して!!!



 というわけで、これが「星組トップ娘役について」というニュースが出て翌日の観劇だったので、以前、宙組トップ娘役についての発表があったときに書いた「2016年観劇総括(と、トップ娘役絶対必要論と、年末のご挨拶)」の一部を加筆修正して、以下、再掲します。組や個人の名を変えたくらいでほぼ変えていません。つまり、そういうことです。恐ろしいことに、事態は、劇団はまったくなんの前進もしていないのです…

※※※

 さて、今年はまたまたあれこれ激動ですね。雪組トップスターと星組トップ娘役の卒業がすでに発表済みなワケですが…
 ひっとんの後任を立てないとされたことについては、発表が遅かったので怪しいなと思わないでもなかったのですが…正直、ショックです。
 だって夢白ちゃんの相手役を固定せず柔軟に対応します、とは絶対にならないわけじゃん。博多座『ミーマイ』だって『BIG FISH』だって十分柔軟な対応だったじゃん。なんなの?
 小桜ちゃんでは足りない、うたちでは早いというなら、あわちゃんでもみちるでもはばまいちゃんでもじゅっちゃん(これはないか)でも、誰を組替えさせてでも、とにかく誰かを次期トップ娘役として就任させていただきたかったです。誰でもいいわけではもちろんない、しかし誰かが必要です。あまとくんやつんつんを娘役に転向させるとか? でなきゃひっとんを慰留してほしかった。乱暴な物言いなのは承知しています、仮に名を挙げた生徒さんのファンの方々、すみません。
 でもそれくらい、トップ娘役の空位って意味がないことだと私は考えているのです。百害あって一理もないと言いきりたい。
 今のようなトップスター制度、トップコンビ制度が確立されたのは宝塚歌劇100年の歴史の中で昭和『ベルばら』ブーム以降のたかだか30年かそこらでしかない、だからそんなに大騒ぎすることではない…という言い方もできるでしょうが、しかし1/3近くも歴史があるなら十分に伝統だと思います。そしてトップ娘役の不在は過去にほぼ成功例を見ていません。てか成功例ってナニ? 歴史から学ばずして何をどう改善させ、未来につなげていけるというのでしょう。
 ターコさんの前にモックさんが卒業して、ターコさんが卒業するまでの1公演。サエちゃんの前にエミクラちゃんが卒業して、サエちゃんが卒業するまでの1公演。そしてまぁさまの前にみりおんが卒業して、まぁさまが卒業するまでの1公演…これらは暫定的な処置として、まだわからなくもありませんでした。
(イチロさんは、トンちゃんが卒業したあとすぐハナちゃんだった…よね? 違っていたらすみません)
 でもアサコのときは本当に観ていて楽しくなかった、つらかった。当人はミホコと一緒に卒業したかったのを慰留されたのかな、と私は思っていましたが、卒業までの3公演、結局はほぼほぼあいあいが各作品のヒロインを務めながらもトップ娘役扱いはされないという不遇を受け、男役二番手スターのきりやんがショーなどで女役に回ってデュエダンの相手を務めたりと、不規則で不自然な状態が続きました。あまりにもあまりでした。
 のちに当人も相手役がいなかった時期はつらかった、みたいなことを語っていますし、この空位のあと月組トップ娘役に就任したまりもも見本がなくて困惑した、みたいなことを語ったことがありました。あいあいも、打診されて断ったとかではなく、なる選択肢がそもそも与えられなかったのだ、というようなことをのちに語りました。みりおも、当時の娘役たちに目標がなくなって空気が悪かった、とのちに語りました。だからみりおは、何人替わっても必ず相手役を持ったのではないかしらん…
 生徒たちにそんな負担をかけてどーする、と劇団には言いたい。
 何より、常に主演する役目を負うトップスターとって、固定された相手役がいないことは負担になると思うのです。トップ娘役という固有の相手役が持てることはトップスターだけの特権、というよりむしろ権利だと私は思う。そういう共闘するパートナーがいないとしんどすぎて耐えがたいくらい、トップの大任は重いのだと思う。だから劇団には相手役を与える義務があるのではないか、とすら私は思うわけです。
 多様な作品でたくさんの娘役に個性を発揮する機会を、なんておためごかしにすぎません。だってぶっちゃけそんな筆力ある作家がいないじゃん。ヒロインひとりですらまともに描けていないくらいの作品を平気で上演しているくせに、ちゃんちゃらおかしいです。
 誰かを次期トップ娘役にしないということは、みんないいから選べない、と言われているというより、みんなダメだと言われている気が私はしてしまうのです。それが悲しい。
 仮に帯に短し襷に長しだろうがなんだろうが、立場が人を育てるということは絶対にあるんだし、誰かに決めてやらせてみればいいんです。絶対的と思われる二番手格がいたって、そのトップ就任にはガタガタ言う人は必ず存在します。誰に決めたって文句は必ず言われるんですよ劇団は、だからそういうことは無視して誰かに決めるしかないんです。そのために他の生徒をやめさせるようなことだって、今までさんざんしてきたじゃないですか。トップスターを1公演でやめさせることすらやってきたのに、何を今さら日和っているの? 何が怖いの? 何を目指してるの?
 女性は、あるいは日本人は、あるいは宝塚歌劇ファンは、清く正しく美しく、確立された規律に従い遵守する傾向が強いと思います。だから例外を嫌う、不測の事態を嫌う、ということもあるかと思います。でもそれより何より、この措置の意味がわからないから嫌なのです。いいことだと思えないから嫌なのです。
 逆に言えば誰が就任しても、そう決められれば、文句を言いつつも結局は受け入れるし観に行くんですよ。だってファンだから、だって決まったことだから。
 でも、トップ娘役を置かない、という決定は受け入れがたい。少しも早く収拾して、星組次期トップ娘役を決定していただきたいです。
 キムお披露目の際に相手役たるトップ娘役を定めず、ヒロインをダブルキャストで上演したときも、結局その状態は1公演で終わりましたよね。あれもなんの意味もなかったと思っています。今回も早々にそういう判断が下され、方向転換されることを祈ります。
 セクシャルマイノリティなど、多様な愛と性の在り方が顕在化してきた現代において、変わらずマジョリティであるのが男女の異性愛だと思われますが、現実においてはまだまだ幸せな帰結を見ることが少ないじゃないですか。お互いの無理解や無理強いや、不平等な婚姻制度を始めとする社会制度の不備、さまざまな抑圧や偏見、家事育児仕事の不均衡の問題などなど幾多の障害が山とあり、美男美女がお互い対等に愛し合い信じ合い許し合い支え合い幸せになることなど、まさしく夢物語の中にしか存在しないのが現状です。
 その夢物語を紡いでくれるのが宝塚歌劇でしょう。そして私たち観客はそれを観て、ただの夢物語に現実をひととき忘れるだけの逃げ場とするのではなく、現実が目指すべき理想の姿、あるべき未来の指針を見て、より良い明日目指して日々の現実を生きる心の支えにしているのだと私は思うのです。愛し合い、支え合い、人と関わり合いつながり合うことは美しい、と思いたいから、信じたいから、それを見せてほしいのです。だから宝塚歌劇を観るのです。
 青春を捧げて己を鍛え光り輝く生徒たちの真ん中に、常に結ばれるカップルを演じてくれる最も美しい一対の男女(役)がいる…そのことがどれだけ大切で重要なことか、想像できないというのなら、それはあまりに鈍感にすぎませんか? 組のトップスターとトップ娘役は、その男女のカップルを常に演じ、舞台の上で真実の愛を生き、美しい輝きを放ってくれる存在なのです。大切でないはずがない。
 そしてそこにはただひとりのトップスター、そのただひとりの相手役、という魔法が必要なのです。現実はそう単純にはナンバーワンにもオンリーワンにもなれず、一対にもなれていないからこそ、絶対に絶対に必要な魔法なのです。
 誰でもいいなら、どんな組み合わせでもいいなら、その魔法は消えてしまう。というか、それでもファンは、各自の贔屓をすでにそのように愛しているのです。トップになることがすべてではないこともちゃんとわかっているから、トップになれなくても、ならなさそうでも贔屓を愛している。その上で、それでもそこにトップコンビが存在していること、それが大事なんじゃないですか!
 ただひとりの男と、そのただひとりの相手の女、という幻想を女が手放したら、人類は滅亡します。今、その幻想が手放されつつあるから、非婚化と少子化が加速度的に進んでいるんですよ…それでいいの? いいわけないよね??(いやホントはソレでもいいんだけど、それが人類の進化の行き先なんだけど、それはここでは置きます)
 ことありは仲良しだし相性もいいからトップコンビの代わりでもいいじゃん、とは私には思えません。ありちゃんが娘役に転向するとかでないなら、二番手男役スターがトップスターの相手役だとは私は言いたくない。そもそも男女の異性愛すらなかなかまともに描けていないのにBLやろうなんてちゃんちゃらおかしい。というかそもそもそういうニッチなジャンルにメジャーは手を出すべきではないのである! メジャーの矜持を持たんかい!!
 私はトップ娘役の不在に反対です。できる手段で劇団に意見を伝えていきたいと思います。
 …でも「高声低声」に投稿してもボツなんだろうなー……がっくし。
 















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲... | トップ | 韓流侃々諤々neо 13『太... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事