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掛塚、津倉家住宅の見学 後

(伊豆石造りの旧掛塚郵便局)


(伊豆石造りの蔵)

(昨日のつづき)
津倉家が建てられた明治22年、東海道線が開通し、掛塚は大きな転機を迎えた。天龍材の運搬を、今まで通り水運に頼るのか、鉄道に切り替えるのかという論争が巻き起こった。論争の末、掛塚は鉄道の優位さに屈し、天龍材の運搬を鉄道に切り替えることに決した。

その結果、掛塚湊の水運は衰退し、掛塚で水運業、材木業を営んでいた人達は、天竜川の対岸を東海道線まで遡った、浜松市材木町に工場や拠点を移し、それぞれ製材業に転業して行き、掛塚から川を渡って材木町まで通勤することになった。日誌に「〇材に行く」と毎日のように記され、天竜川が増水すると、「渡船が通わないので、〇材を欠勤する」とあったのは、そのためかと納得した。

大黒柱の二階の部分に、節が一つあり、小さな大黒様の像がその節に埋め込まれていた。大黒柱に大黒様と、昔の大工は粋な遊び心を持っていた。


(津倉家の大黒柱の大黒天)

欄間に細かい細工の格子が嵌っていたので、この辺りにそんな職人がいたのかと聞けば、掛塚湊には船大工がたくさんいて、舟運がすたれると職を失い、建具職人に転職する人たちも多くいたという。

津倉家住宅の見学を終えて、もう一つの見学場所、石造りの旧掛塚郵便局を見に行った。先程、津倉家住宅を案内していただいた方は、掛塚には伊豆石を使った御蔵などがたくさん見受けられる。大火の多かった掛塚では防火の意識が高く、防火の建物が多く作られた。その建材になったのが伊豆石である。

掛塚湊は、天龍材を江戸へ運ぶ舟運が盛んで、回船問屋もたくさんあった。材木を運んだ帰り船は、空荷が多くて、東京湾から相模湾までは、内海のようなものだから、何とか航行が出来たけれども、遠州灘は外海で、喫水線が浅いと船が安定せず、安全な航行が出来なかった。そこで、伊豆の下田湊で名産の伊豆石を積んで、喫水線を深く、船を安定させ、掛塚湊まで帰った。だから、掛塚では伊豆石が安価で潤沢にあった。伊豆石は加工がしやすいので、蔵などの防火対策のために、多くの伊豆石が使われるようになった、と説明された。

旧掛塚郵便局は前面はモルタル壁で化粧されているが、全体が伊豆石を積み上げた建物であった。その裏にも、立派な伊豆石の蔵があった。

午後、歴史講座があるので、後半は駆け足になってしまったが、突然の声掛けにこれだけの仲間が集まる関係を、これからも大切にして行きたいと思った。
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