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「竹下村誌稿」を読む 173 竹下村 33

(掛塚の公園で見たオオヒエンソウ)

夜、外は大雨が降り続いている。写真が底をついて、6月9日、掛塚の公園で見た花を載せる。その時は名前が分らずに、載せることを見送ったが、その後、名前を調べた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

一 竹下村の儀、古来は竹の下村とこれ有り候に付、御尋ね成られ候。正保年中(1645~1648)の節は、竹之下村と御免定など下され候。然る所、三十二年已前、寛文八申年(1668)、長谷川藤兵衛様御代官所の節、御免定に、竹下村と御書付下され候。それ以後「之」の字付け申さず候。野田三郎左衛門様御代官所に相成り、終に「之」の字記し候儀、書き上げ申さず候。以来、御不審の儀、御座候わば、私どもへ仰せ聞けらるべく候。急度申し訳仕るべく候。後日のため、よって件の如し。
  元禄十三庚辰(1700)五月    庄屋    八左衛門  ㊞
                    組頭    勘左衛門  ㊞
                    同     三右衛門  ㊞
                    同     次郎馬   ㊞
                    同     喜平    ㊞
                    同     忠右衛門  ㊞
                    同     惣左衛門  ㊞
   青山下野守様御内
      由良八郎左衛門殿
      本山又左衛門殿
      赤見新左衛門殿
      寺井茂太夫殿
      酒田角之丞殿
      服部半左衛門殿   (以上下嶋氏記録)


(元禄)十五年(1702)七月、幕領に復し(窪嶋市郎兵衛、同作右衛門)代官所となり、本村名細帳を録し申せり。その記する所、石高、堤防、社寺などの大概に過ぎざれば、これを略す。

この年十月十四日、赤穂藩浅野長矩の遺臣、大石良雄父子など四十七人、夜、吉良吉英の邸を襲い、これを殺し、旧主の讐(あだ)を復す。明年二月、良雄など皆な死を賜う。この事、世間周知する所にして、本村に関係あるに非ず。しかも戦国の余習として、君父の讐(あだ)にはともに天を戴かざる風ありて、復讐のこと、また罕(まれ)なりとせずといえども、世に良雄らを忠臣と称し、頗る視聴を惹きしものなれば、特に記するのみ。
※ 余習(よしゅう)- 残っている昔の習慣。
※ 君父(くんぷ)- 主君と父。
※ 父の讐(あだ)はともに天を戴かず - 君父のかたきとともに、この世に生きていたくない。生命をかけても報復しないではいられないことにいう。不俱戴天。
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「竹下村誌稿」を読む 172 竹下村 32

(静岡中央図書館内から、城北公園の緑陰が見える)

夜、金谷宿大学役員会。23日の総会の打ち合わせであった。会議の後、急いで家に帰って、サッカーワールドカップ、ロシア大会をテレビ観戦した。日本は初戦でコロンビアを2:1で破った。歴史的大金星である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(元禄)十三年(1700)五月、これまで永く幕領たりし本村は、これに至りて青山下野守領地となり、左の書面を差し出せり。
※ 青山下野守 - 青山忠重(ただしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。遠江浜松藩3代藩主(1685~1702)。後に丹波亀山藩初代藩主(1702~1722)となる。

        遠州榛原郡竹下村高の事
一 高弐百五拾参石弐升        竹下村
      内
  百拾八石八斗五合   本田 これは七拾弐年以前、寛永六巳年(1629)、駿河大納言様御領地の節、御検地
  参拾四石四斗七升九合 出石 これは五拾四年以前、正保三戌年(1646)、長谷川藤兵衛様御代官所の節、御検地
  九拾弐石弐斗参合   出石 これは三拾一年以前、寛文十戌年(1670)、長谷川藤兵衛様御代官所の節、御検地
  九斗六升       出石 これは二拾五年以前、延宝四辰年(1676)、長谷川藤兵衛様御代官所の節、御改め
  壱斗壱升弐合     出石 これは拾三年以前、元禄元辰年(1688)、長谷川藤兵衛様御代官所の節、御改め
  五斗八升四合     出石 これは九年以前、元禄五申年(1692)、野田三郎左衛門様、御改め
  五石八斗七升七合   出石 これは八年以前、元禄六酉年(1693)、野田三郎左衛門様、御改め。屋敷分つぶれ高入れ、庄屋屋敷、百姓屋敷廿三軒分
     都合弐百五拾参石弐升       惣高

右は当村高の儀、遠州御□□御用に付、御吟味成られ候。正保二酉年(1645)御代は、村高百拾八石八斗五合にて御座候処、五拾四年已前、正保三戌年(1646)、長谷川藤兵衛様御検地出石御座候。その後、御同人様、野田三郎左衛門様御改めにて、段々出石、已来今程、都合弐百五(拾)参石弐升、村高少しも相違御座なく候。

  元禄十三庚辰(1700)五月    竹下村庄屋  八左衛門  ㊞
                       組頭  勘左衛門  ㊞
                       同   三右衛門  ㊞
                       同   次郎馬   ㊞
                       同   喜平    ㊞
                       同   忠右衛門  ㊞
                       同   惣左衛門  ㊞
    青山下野守様御内
      由良八郎左衛門殿
      本山又左衛門殿
      赤見新左衛門殿
      寺井茂太夫殿
      酒田角之丞殿
      服部半左衛門殿


読書:「熊出没注意 自選短篇小説集」 南木佳士 著
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「竹下村誌稿」を読む 171 竹下村 31

(散歩道のハルシャギク)

今朝、大阪北部を震源とするマグニチュード6.1の地震があった。最大震度6弱の地震があった。すぐに思い浮かんだのは、枚方在住の友人KY氏のことであった。しかし、電話が混んでいるだろうし、自分の電話は優先度は低いと思い、少し時間を置こうと思っていると、先方からブログのコメントを使って安否を連絡してくれた。ともあれ、無事を確認出来て、目的は達せられた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(元禄)十二年(1699)十月、田方不作にて検見ありし際、志戸呂村庄屋の手違いにより、隣町村より代官所へ差し出したる一札あり。

      差し上げ申す一札の事
一 当立毛小検見として、各(おのおの)様、村々お越し成られ候節、志戸呂村に於いて、庄屋相煩(わずら)い申す由にて、組頭一人罷り出で、田所御案内仕り候処、内検見の仕方宜しからず、合毛御仕法相違致し、その上地□□の次第も一切□□候由、組頭の外、地主百姓も御出合い申さず、段々不届きに思し召し、手錠相掛け村へ御預け、度々の御吟味の趣、とかく申し上ぐべき様も御座なく、御もっともに存じ奉り候。

※ 立毛(たちげ)- 田畑で生育中の農作物。主として稲についていう。
※ 小検見(こけみ)- 大検見(おおけみ)の前に、代官の手代が行った検見。
※ 内検見(うちけみ)- 村側で前もって作柄を調べ、結果を絵図とともに検見役人へ提出すること。(検見の手順/内検見 ⇒ 小検見 ⇒ 大検見)
※ 合毛(ごうけ)- 内検見の際に作柄を検査した上で籾の量を測ること。


併し、御年貢賄い時分にも差し掛り、庄屋は久々相煩い罷り在る儀に御座候間、何とぞ御免下さるべく候様、五和村筋、観勝寺、洞善院、相加わられ、御断り申され候に付、御免下され候由、仰せ渡され、村掛□共に忝く存じ奉り候。以後、箇様(かよう)の儀御座候わば、何(いか)様にも仰せ付けらるべく候。その為、かくの如くに御座候、已上。(□は腐蝕)

  十月朔日           金谷町百姓宿   次郎左衛門 ㊞
                 同町年寄     三右衛門  ㊞
                 牛尾村庄屋    彦右衛門  ㊞
                 竹下村庄屋    八左衛門  ㊞
    水口小野右衛門様
    大頭甚五左衛門様    (以上下島氏記録)


按ずるに、この時代は世の階級多く、官憲の力極めて強く、官職あるものその職権を弄(ろう)すること甚だしく、上司の人民を遇する土芥の如く、支配下の人民に対しては百姓町人と呼びなし、全く生殺与奪の権を有し、しかも人民は絶対服従せしものなり。その職務に関する責任にして前記の如し。所謂武断的政事を実現せしものゝ如し。
※ 土芥(どかい)- 土とごみ。ねうちのないもの、とるにたりないもののたとえ。

然るに、当時寺院は制外の徒(長袖)と称して推重せられたれば、寺院の中(仲)介に対し、特にその責を寛宥せられたるものなり。されど翻って、治者と被治者の内容を見るに、領主代官は産業を奨励し、風教を維持し、人民を愛撫する状態も少なからざれば、人民は領主代官を畏敬するのみならず、永き年代の関係より、領主代官と人民の間柄は、寧ろ円滑と云うべき趣も、なきにしも非ざりしなり。
※ 長袖(ながそで)-(武士が袖くくりして鎧よろいを着るのに対し、常に長袖の衣服を着ていることから)公家・医師・神主・僧侶・学者などの称。
※ 推重(すいちょう)- 尊び重んじること。
※ 寛宥(かんゆう)- 寛大な心で罪過を許すこと。
※ 風教(ふうきょう)- 徳をもって人々を教え導くこと。風化。
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「竹下村誌稿」を読む 170 竹下村 30

(散歩道のムラサキクンシラン)

梅雨入りしてから、晴れたり、曇ったり、雨になったりと、天気が定まらない。いずれ梅雨末期には大雨も降るのだろう。この金曜日には南部センターの二回目の講座がある。この週はその準備をしなければならない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この月(元禄九年九月)、代官所の達しにより、村絵図並び付近町村里程調べを録進せり。蓋し、元禄改定図の材料たりしなるべし。この時、里程の起点となしたる高札場の位置は、当時、庄屋八左衛門宅地前に在りしものなり。

当村御高札場より
 志戸呂村御高札場まで、六町四拾九間  
   但し、当村忠右衛門西溝端まで、壱町三拾三間
 牛尾村 同   まで、拾町四拾間   
   但し、牛尾村境、当村の内、齊藤島へ五町三拾間
 横岡村 同   まで、拾四町五拾四間 
   但し、横岡村境、当村の内、十三郎東まで五町三拾八間 
 番生寺村同   まで、拾六町二拾間  
   但し、番生寺村境、当村の内、四町
 島村庄屋左次兵衛方まで、拾七町
 大代村庄屋まで、三拾弐町
 金谷問屋前まで、二十七町
 日坂へ、二里二拾三町  
   但し、金谷通り
 相良へ、四里三拾五町


同年(元禄九年)十月、村内に流死人ありて、代官所の尋問により、左の口書きを差し出したり。

一 十月五日昼時、当村五郎兵衛と申す者、大井川横岡前にて、流死仕り候に付、様子お尋ね遊ばされ候。五郎兵衛儀、昨四日、神坐(座)村に親類御座候に付、権右衛門、庄五郎同道仕り、罷り越し、翌五日横岡村まで罷り帰り候処、大井川本瀬を渡り申し候処に、何と仕り候や、三人共に深き所に渡りかかり、余程の内流され、両人半死半生にて揚り申し候。

五郎兵衛儀、常に足不自由に御座候えども、斯様(かよう)の川など渡り兼ね候ほどには御座なく候。然れどもとい(樋)へ落ち申し候故、上りの事成し難く、相果て申し候。早速死体見付け、色々養生仕り候えども、相叶い申さず、自然(当然)怪しきこともこれ有るかなと、御尋ね遊ばされ候えども、少しも怪しきこと御座なく候。御尋ねの趣、有体(ありてい)に申し上げ候、以上。


  元禄九年(1696)子十月五日 竹下村  権右衛門 ㊞
                       庄五郎  ㊞
                   庄屋  八左衛門 ㊞
                   組頭  甚右衛門 ㊞
                   同   半三郎  ㊞
                   同   勘左衛門 ㊞
                   同   三右衛門 ㊞
                   同   忠右衛門 ㊞
                   同   喜平   ㊞
                   同   次郎馬  ㊞
     御代官様
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「竹下村誌稿」を読む 169 竹下村 29

(散歩道のアジサイ9)

午後、「古文書に親しむ(経験者)」講座に出掛ける。定家の近代秀歌の残りを解読後、掛塚の松山源八氏の日誌を少し解読した。同日誌は量がたくさんあるので、時間が余った時に少しずつ解読しようと思っている。

「竹下村誌稿」の今日の部分はなかなか難しい。おおよその意味はつかめたが、一語一語は十分解読出来たとは言い難い。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるにこの日明は比也利(ひやり)と訓ず。今、磐田郡阿古村の大字にして、天竜川の沿岸にありて、榑木を守る川場なり。この榑木は信濃国伊奈郡加志保、大河原の二山より出す貢木にして、磐田郡光明村に榑山と云う所ありて、その貢木を天龍川より流し出し、この榑山に上陸して積み置きし所なり。されば日明御榑木人足はこの榑木を守る人足を謂う。磐田郡誌に
※ 榑木(くれき)- ヒノキやサワラなどから製した板材。

榑山は、光明村船明(ふなぎら)にして、大谷との境にあり。昔、信濃国より貢ぐ所の榑木を、河場よりここに取り揚げて、積み置きし所なりと云う。

とあり。また榑木綱留めの説、遠記伝に見えたれば、筆の次に抄録して、参照に充(あ)つべし。

榑木を取り揚げる手量り(てはかり)は、三山に延(はえ)たる小桑蔓千曳き、八千曳きに引き来て、行く水の大川辺もなく積み置きて、百八十に、練り固ね、かたねし、綱根に練り本振り立て、その本綱を練り付けて、行水の彼方、此方に引渡し、浮き木を受け結い、藤の蔓を練りそに練りて、綱根も隙(ひま)なく結び固ね、かたねし。
※ 手量り(てはかり)- てだて。方法。
※ 小桑蔓(こくわづる)- サルナシの別称。ツルは直径約5センチ、長さは50メートルにも伸び、丈夫で腐りにくいことから、祖谷のかずら橋(吊り橋)の材料にも使用されている。
※ 千曳き(ちびき)- 千人もの多人数で引くこと。
※ 尋(ひろ)- 一尋は1.8メートル。百八十尋は320メートル余。
※ 練る(ねる)- 木の枝などをたわめて作る。


編み目の三尋、三尋に、竹の御園(御立て籔と号す)の千尋竹を、本(もと)伐り、末押し払いて、八張に取り割り、五十綱二組はえ、(竹綱を以って、とめづなと号す)所浮(うける)本綱に、間なく隙なく取り結びて、榑山岸なる松の木の根に引き延して、百手に取る如く取り付けて、
※ 百手(ももて)- 弓術で、200本の矢を100回に分けて射ること。甲乙2本の矢を一手とする。

はらら、はららに浮き流れ来る、大河原の桧の妻木を、この本綱に塞(せ)ぎとめて、守部の八村の男女等、身もたなしらず引き揚げて、手越しに越して、野もせ山もせ棚積み積み、千延べ、八千延べ、の数々を、守部の役を負わせて、夜番(よるのまもり)、昼番(ひるのまもり)に、守り居らし。司(つかさ)に申して、御言のまゝに筏に造り、掛塚湊に乗り下し、大船小船に積み足はして、依指(よさし)の処に運び送る。
※ たな知らず(たなしらず)- よく知らず。わきまえず。
※ 野もせ山もせ(のもせやまもせ)- 野も山も塞ぐばかりに。
※ 積み足(つみあし)- 積荷状態の時の船の吃水。
※ 依指(よさし)の処 - 指示された処。


その妻木の生る所は、信濃国なる御林、鹿塩、大河原、二つの山なり。その杣人は、賦庸(えたな)を減らし、川駈(かわか)人は、(えたち)に充(あ)つ。積み置き地は、積み場の御林、水中の守は諏訪の大神(三所にあり)、陸地の守は、八村の(二俣、犬園、日明、船明、伊佐、山中、大谷、山東、昼四人、夜は八分番守)役民なり。その小桑蔓と練り本柱は、料の金を賜い、水揚げ、棚積みの人夫も、料の銭を賜う。凡そ慶長より始りて、明和二乙酉年(1765)の春以来、綱留めの事、止停(やむ)。故、昼夜の番所も廃壊(すたれ)たり。
※ 妻木(つまぎ)-「榑木」の言いかえ。(「妻板」は物の側面に張る板を指す)
※ 杣人(そまびと)- 杣木を切ったり運び出したりする人。きこり。
※ 賦庸(えたな)- 税としての労役。
※ 川駈り(かわかり)- 川狩り。木材を筏に組まずに川に流して運ぶこと。
※ 庸人(えたちびと)- 税としての労役にかり出された人。
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「竹下村誌稿」を読む 168 竹下村 28

(散歩道のカンナ)

午後、駿河古文書会に出席した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(元禄)九年(1696)九月、従来本村は国役人足は免除せられしが、代官所の調べにより左の覚書を出せり。
※ 国役人足(れい)- 江戸時代の貢租の一種。幕府が特定の国を指定して、河川の修築、朝鮮使節の参府、将軍の日光社参などの経費にあてるため、臨時に徴発した人足。

          覚え
竹下村は日明御榑木人足、先年より御除き来たり申し候。当村初発の節、石原にて新田開発に成り兼ね、殊にその節、少人数にて井水揚げ兼ね申し候処、右の御役をも以来共に御除き下さるべく候間、精を出し新田仕り候様仰せらるべく、これにより前々より御除き来たり候。その後、遠山六左衛門様御代官所の時、御証文一通御座候。この度御尋ねに付、口上書を以って申し上げ候。少しも相違御座なく候、以上。
   元禄九年子九月四日          庄屋 八左衛門  ㊞
                      組頭 三右衛門  ㊞
                      同  次郎馬   ㊞
                      同  忠右衛門  ㊞
                      同  半三郎   ㊞
                      同  勘左衛門  ㊞
                      同  喜平    ㊞
                      同  甚右衛門  ㊞
         谷村藤十郎殿

※ 榑木(くれき)- ヒノキやサワラなどから製した板材。古くは壁の心材に、近世では屋根板材に使用された。

前記御証文は、次の如くにして、年暦不明なれども、遠山氏が本村の代官たりしは、寛永十年(1633)より同十五年(1638)まで、在任六ヶ年なりしより推考せば、蓋し、同氏が初任の年なるべし。

御状、具(つぶさ)に拝見仕り候。然らば、金谷筋川端の村、高千拾石の分、前々より引きにて、御榑木人足に出で申さず由、その意を得申し候。則ち右の旨、日明へ申し遣し、前々の通り引き候様に仕るべく候、恐惶謹言。
    極月廿七日              松平清左衛門
                           親花押
          遠山六左衛門様御報

※ 御報(ごほう)- 身分の高い人に出す、文書による返事。また、それに用いる脇付。

右は遠山六左衛門様御代官所の時、この辺五ヶ村筋は、御榑木人足仰せ付けられ候えども、五ヶ村は前々より御榑木人足出し申さずと、遠山六左衛門様より松平清左衛門様へ、右の趣、御状遣わされ候に付、、前々の通り御引き来たり候。末々まで御証文に仕り候えと、清左衛門様よりの御返札、六左衛門様より下し置かれ候。朝鮮人の外、惣て御国役の分、前々より御引き来たり候。

右の通り御証文これ有るに付、大助郷の砌も日明人足出し申さず候。元禄七戌年より、定助に罷り成り候間、弥(いよいよ)以って榑木人足は出し申さず候。末々に至るまで、右御証文を以って、御代官様へ御断り申し上げ、御証文、八左衛門預り置き候。(以上下島氏記録)


読書:「福家警部補の考察」 大倉崇裕 著
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「竹下村誌稿」を読む 167 竹下村 27

(散歩道のナンテンの花)

午後、掛川古文書講座に出席する。期の始めは、いつも初心者に合わせるので、講座内容が初歩的な話が多くて、やや退屈であった。教材も「御条目五人組帳」で、少しずつ内容が違うとは言え、今までに何度かお目にかかったものである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また掛川誌横岡の条に、

飯盛山観勝寺(曹洞宗久野村可睡斎末)川根沢の南にあり。除地、寺領二石八斗六升。本堂九間(額飯盛山梅堂筆)本尊薬師。開山可睡斎十三世宗山和尚。開基北川七郎右衛門。(寛永の頃より庄屋を勤む。今久蔵と云う。組頭なり)この寺境内広し。松平隠岐守定勝除地寺領の黒印あり。
※ 除地(よけち)- 江戸時代、年貢諸役を免除された土地。社寺の境内や無年貢証文のある田畑・屋敷など。

とあり。按ずるに、慶長中の黒印は、志戸呂の地内を寄せられたるものにして、寺領二石八斗六升を受けしは、寺の横岡に移転后、検地の際、除地せられたるものならん。されば、掛川志に、この寺境内広し。松平隠岐守定勝除地、寺領の黒印あり、と云えるは、志戸呂地内と横岡境内とを混同視したるものなるべし。

同八年四月、大代山秣刈り取り領収書料、原野切り起し料など、代官所へ差し出したる覚書あり。

       覚え
 一 馬札拾七枚      人名略す
 一 歩行札三枚      人名略す
 一 米二石二斗二升        御札拾八枚半
  これは大代山御札、米一枚に付一斗二升ずつ
 一 米四俵二斗
  これは当村大根蒔き申す処、御座なく候に付、大代村の内、長者原を起し、右の米、大代へ年々
  相納め、作り来たり申し候。
    元禄八年(1695)亥四月    竹下村
                      庄屋 八左衛門  ㊞
                      組頭 甚右衛門  ㊞
                      同  半三郎   ㊞
                      同  忠右衛門  ㊞
                      同  勘左衛門  ㊞
                      同  惣兵衛   ㊞
                      同  喜平    ㊞
          谷村藤十郎殿(代官の手代)


因みに、本村は元来畑に乏しく、現時は茶園として志戸呂原を開拓せしを以って、その間作として、大根その他野菜を収穫せるも、元禄の当時は、この長者原を起す外、菜園なかりしものなるべし。今も長者原付近各所に、古畑の跡を存し、しかも古新田の名あるものあり。これらは慶長以前の検地を受けたる名残りなるべし。
※ 間作(かんさく)- ある作物の畝と畝の間や、株と株の間に、他の作物を栽培すること。ここでは、茶の苗が大きくなるまで、茶の畝間に野菜などを植えること。
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「竹下村誌稿」を読む 166 竹下村 26

(散歩道のノハカタカラクサ)

漢字で書くと「野博多唐草」、別名「トキワツユクサ」と呼ばれる。ツユクサの仲間である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

文政中(1818~1831)祝融に罹り、再建の際、今の処に移転せりと云う。また一説に、今の観勝寺境内は、往昔、質侶の郷士、大沢兵庫の旧跡なりと云うといえども、考うべきものなければ、真偽もとより弁えがたし。されど、近時、境内近隣の山林を開墾して、刀剣、古陶器などを、掘り出せしこと往々あるのみならず、付近に長者原の地名もあるを見れば、古代、相応権威ある部族の居住せし遺趾(いし)なりしやも、また知るべからず。
※ 祝融(しゅくゆう)- 火災。火事。

因みに、大存和尚は(俗名鶴見大蔵と云う。横岡の城主因幡守栄寿の子にして、城の陥るや出でて僧となる)初め賢仲派に入り、頗る碩徳あり。晩に真岩派となると云う。遠記伝に観勝寺末寺五宇(寺)、曹洞宗。周智郡上久野村可睡斎末、真岩派、とあり伝え云う。年暦未詳。(寛永中(1624~1645)とも)
※碩徳(せきとく)- 徳の高い人。特に、高徳の僧。

故ありて、寺と志戸呂大檀越下嶋源吾(当時大庄屋)と相容れず、源吾一族離旦せり。依って、寺地を横岡に相したりと云う。その時代不明なりといえども、思うに本村常安寺は観勝寺末寺にて、寛永十四年(1637)、源吾分家、下島八左衛門の開基にして、開山を観勝寺より請じたるを見れば、この時までは、寺旦相協(したが)いしなるべし。若しこの時、寺旦離反後とすれば、開基氏の開山を観勝寺より請ずべき筈なかるべし。されば、寺の横岡に移りしは寛永十四年以後のことなりと推断すべし。
※ 大檀越(だいだんおち)- 物を施す仏教信者で、多く施す人。
※ 離旦(りだん)- 寺院とその檀家とが関係を切ること。


この寺は慶長中、領主より黒印を寄附せられる。その文に曰う、

寺内の儀、これを進じ置く由、申され候間、その御心得成さるべく候。後日のため、我ら一札かくの如く候、恐惶謹言。
   慶長八年(1603)丁卯六月朔日     長沼吉兵衛
                           朝之 花押
            観勝寺衣鉢閣下

※ 衣鉢閣下(いはつかっか)- 僧侶に対する脇付の一つ。「衣鉢」は「禅宗で、法を伝える証拠として授ける袈裟と鉢。また、禅僧が師と仰ぐ僧から伝えられる奥義。」

隠岐守殿より寺内の儀、近々申付けられ候て、河内殿も相違なく、前々の如く、進じ置き候由、申され候間、その御心得成さるべく候。後日のため、我ら一筆、かくの如く候、恐惶謹言。
   慶長十二年八月朔日           竹内久右衛門
                           重信 花押
            観勝寺机下

※ 机下(きか)- 書簡文で、相手を敬ってあて名に添える脇付の一。

この隠岐守は松平定勝にして、徳川家康の同母弟なり。慶長六年掛川城に封せられ、後、桑名に移れり。河内はその嗣子(しし)河内守定行を云う。
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掛塚、磐田市歴史古文書館を訪問する

(磐田市歴史文書館)


昨日の朝、掛塚の名倉慎一郎氏から電話を頂いた。見学会に渡した資料が名倉氏の手に渡ったようで、そのお礼の電話であった。この文書のこともあり、一度、お会いしたいと話して、電話を切った。

名倉氏は現在、磐田市歴史文書館(磐田市竜洋支所内)に勤務されていると聞いた。勤務は週に三日ほど、今日は文書館にいらっしゃるというから、思い付いた時に動いておかないと、機会を失いそうで、さっそく電話をして、午後訪問のアポイントメントを取り、昼食後、出掛けた。

想像に反して、名倉氏は大変ソフトタッチな方で、話しやすくて、ついつい長話をしてしまった。講座をやっていると、二時間という単位が身体に刻み付いているらしく、そろそろと感じた時は、ちょうど二時間経っていた。貴重な時間を使わせてしまって、恐縮して席を立つ。

日本には、たくさんの古文書が旧家などに残っているが、いまその古文書がどんどん失われている。しかし、その古文書をどこかへ預けたくても、受け入れ先がない。教育委員会や図書館などに預けようとしても、受け取ってもらえないか、あるいは、受け取っても担当者が替ると所在が不明となってしまうと、古文書の置かれた現状を話すと、県内の市町村で、文書館は、こゝ磐田市歴史文書館だけだと聞く。

話の中で、「日誌」の解読上の疑問点が幾つか解決できて、自分にとっては大変有意義な面談となった。以下、そのいくつかを挙げると、

「丑浜(うしはま)」という言葉がある。土用の丑の日に、水の気に触れるため、川や海で水浴び(水垢離)すること。遠州地区の風習で、それによって、暑い夏を乗り切ることが出来るのだという。「海水浴」という言葉も出てくるが、「丑浜」のことかもしれない。いわゆる「海水浴」のルーツはこの辺りにあるのかもしれない。

「月を踏む」という表現が出てきた。「踏月」は、月の光が照らしているところを踏んで歩くことだと知った。「日誌」には「丑浜」のあと、夜になって月を踏んで帰ったと記されていた。

「十郎島」これも読めなかった地名であるが、かつて天竜川河口近くに十郎島とよばれた中洲があって、村があったが、天竜川の改修で、天竜川本流になり、退去を余儀なくされた村民は、掛塚に集団で移住した。その地名を、今も十郎島という。

「八丁」という名前が「八丁堤」「八丁塩湯」など、出てくるが、天竜川の最河口の東岸を「八丁」と呼ぶ。掛塚の街中から凡そ八丁離れているからだという。

「講事(こうじ)」は、掛塚では、宗教的な講ではなくて、主に、貯蓄・融資などのための相互扶助の講を云う。現在でもそう呼ばれている。

「日誌」をもう少し読み進んだら、また名倉氏の元を訪ねたいと思う。

読書:「蓮花の契り 出世花」 高田郁 著
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掛塚、津倉家住宅の見学 後

(伊豆石造りの旧掛塚郵便局)


(伊豆石造りの蔵)

(昨日のつづき)
津倉家が建てられた明治22年、東海道線が開通し、掛塚は大きな転機を迎えた。天龍材の運搬を、今まで通り水運に頼るのか、鉄道に切り替えるのかという論争が巻き起こった。論争の末、掛塚は鉄道の優位さに屈し、天龍材の運搬を鉄道に切り替えることに決した。

その結果、掛塚湊の水運は衰退し、掛塚で水運業、材木業を営んでいた人達は、天竜川の対岸を東海道線まで遡った、浜松市材木町に工場や拠点を移し、それぞれ製材業に転業して行き、掛塚から川を渡って材木町まで通勤することになった。日誌に「〇材に行く」と毎日のように記され、天竜川が増水すると、「渡船が通わないので、〇材を欠勤する」とあったのは、そのためかと納得した。

大黒柱の二階の部分に、節が一つあり、小さな大黒様の像がその節に埋め込まれていた。大黒柱に大黒様と、昔の大工は粋な遊び心を持っていた。


(津倉家の大黒柱の大黒天)

欄間に細かい細工の格子が嵌っていたので、この辺りにそんな職人がいたのかと聞けば、掛塚湊には船大工がたくさんいて、舟運がすたれると職を失い、建具職人に転職する人たちも多くいたという。

津倉家住宅の見学を終えて、もう一つの見学場所、石造りの旧掛塚郵便局を見に行った。先程、津倉家住宅を案内していただいた方は、掛塚には伊豆石を使った御蔵などがたくさん見受けられる。大火の多かった掛塚では防火の意識が高く、防火の建物が多く作られた。その建材になったのが伊豆石である。

掛塚湊は、天龍材を江戸へ運ぶ舟運が盛んで、回船問屋もたくさんあった。材木を運んだ帰り船は、空荷が多くて、東京湾から相模湾までは、内海のようなものだから、何とか航行が出来たけれども、遠州灘は外海で、喫水線が浅いと船が安定せず、安全な航行が出来なかった。そこで、伊豆の下田湊で名産の伊豆石を積んで、喫水線を深く、船を安定させ、掛塚湊まで帰った。だから、掛塚では伊豆石が安価で潤沢にあった。伊豆石は加工がしやすいので、蔵などの防火対策のために、多くの伊豆石が使われるようになった、と説明された。

旧掛塚郵便局は前面はモルタル壁で化粧されているが、全体が伊豆石を積み上げた建物であった。その裏にも、立派な伊豆石の蔵があった。

午後、歴史講座があるので、後半は駆け足になってしまったが、突然の声掛けにこれだけの仲間が集まる関係を、これからも大切にして行きたいと思った。
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