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「竹下村誌稿」を読む 177 竹下村 37

(散歩道の真っ赤なダリア)

このところ忙しくて、余裕が無かったが、今日から来月の5日まで、珍しく予定表が真っ白である。梅雨の晴れ間、昼食後、久し振りに道端の花の写真を撮りながら散歩した。風が涼しいし、曇りで日差しもないと思い、出て来たけれども、途中から雲間から日が差して来て、暑くなった。一時間少々で帰宅した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この人夫賃、一人銭百二十八文。弁当運び一日四人、一人百文。村中夜回り一夜六人、一人四十八文。その他、庄屋物頭見廻り人、実費、など、三十九貫七百文(高一石に付、百五十五文)を要せり。大凡(おおよそ)朝鮮使は幕府の継世ごとに来献して、常に東海道を往復し、幕府厚くこれを接待せしものなり。本村は寛永、明暦以来、天和二年(1682)の先例により、人足の課役あるのみならず、物品をも賦課せられ、鶏一羽、卵二個、茄子二十五個、薪二十束、魚串二十五本、竹箸百前(膳)を金谷に差し出したり。

(正徳元年)(1711)十一月二十五日、朝鮮使帰国の際、人夫その他東行の時に同じ。寛延元年(1748)五月、朝鮮使来朝の時も正徳に同じと云う。志太郡徳山村誌に、

寛延宝暦年間、朝鮮人来聘の節は、高百石に付、人夫十二人ずつ割り当て、この人足賃、一人に付三朱余、外に猪、薙(雉)子、鶏の割付あり。猪肉は塩漬けとして金谷へ運搬し、薙(雉)子、鶏は代金にて差し出したるものなり。帰国の節も人夫割当ありしと云う。
※ 来聘(らいへい)- 外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること。

とあるを見れば、大井川東岸の村落にも、人夫と物品を課せられたるものと知らる。

(正徳)三年(1713)八月、幕領及び相良領とも、全村大草太郎左衛門代官所となる(中泉新貝)。因みに、太郎左衛門は、その先、三河大草の人、嘗(かつ)て徳川氏に仕え、軍忠あり。依て子孫代官となると、熙庵遺書に見えたり。
※ 軍忠(ぐんちゅう)- いくさの折に示す忠節。軍功。

(正徳)六年(1716)三月、幕府より巡見使として、奉行鈴木平十郎、同岩手長三郎、目付神谷伝五左衛門(外手代三人)来村あり。この巡見使は、将軍の代替えごとに吏員を全国に派遣し、国郡の治積を察せしむる例なりと云う。
※ 治積(ちせき)- 政治上の功績。

同月十六日、河原町、金谷町、嶋、牛尾、横岡、竹下、志戸呂、大代、番生寺、各町村より、馬九匹、人足四十五人を出し、駕籠及び長持など運ばしむ。代官大草太郎左衛門、中泉より来たり会す。右一行は本村に宿泊するものとし、村内四軒に分宿の予定にて、各々湯殿、厠などの修繕をなしたりしが、河原町、金谷町、嶋村、牛尾村を巡見して、牛尾に宿泊せり。翌日横岡を踏査し、かめ屋(釜谷)に至り、焼物を見物し、竹下、志戸呂、大代を巡見し、大代に宿し、十九日番生寺を検分せり。
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