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「竹下村誌稿」を読む 182 竹下村 42

(散歩道のルドベキア)

写真には花芯の周りがこげ茶の花と、そうでないものが混じっているが、いずれも北米原産のキク科のルドベキアという花である。

関東甲信越は今日梅雨明けとなった。東海以西より先に、しかも観測史上最速、6月中の梅雨明けとなった。今年は暑くて長い夏になりそうである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この年度は自治区構成の初年に当り(廿二年七月より廿三年三月まで)、九ヶ月を以って一ヶ年度となしたるものなれば、計数に於いて、他の年度の四分の三に当ると知るべし。また同年度に属する費用にして、村税外、水利土工費として、賦課せし税目あり。(これは何れも十二ヶ月分)左の如し。

同年度上井用水費  金百八十五円    関係地地租千九百九十円余 地租一円に付金九銭三厘
同  下井用水費  金百二十二円九十銭 同    二千百円余   同   に付金五銭九厘
同  大井川水防費 金六十八円七十銭  同    四千百円余   同   に付金一銭七厘


爾来(以来)自治体の発達に伴い、費用の増加すべきは、固(もと)より数の免れざる所なり。しかも能くその負担に堪え、公共の福祉を進めつゝ、国家の進運稗補せしむるに至るは、甚だ慶すべきことなりとす。
※ 進運(しんうん)- 進歩・向上していく機運や傾向。
※ 稗補(ひほ)- 助けること。こまごまと補うこと。


享保九年(1724)三月、これより先、幕府令して、民間に於いて衣服・器具など、旧制を変じ、新様を作ることを禁ぜしが、これに至りて、婦女子の衣服は縫い価百五十を踰(こ)ゆることを禁じ、倹約を守らしむ。この年、東海道諸国、豊作にて、米価著しく下落し、浅草倉前張り紙値段、三斗五升入り百俵、金拾九両なりしと云う。
※ 目(もく)-「目」は匁(もんめ)。銀の単位(重さ)を示す。

(享保)十一年(1726)、幕府令して、戸口を検(ただ)す。以後七年目毎に、子、午の年を以って、戸口を検(ただ)し、これを録上せしむ。宗門人別改帳、これなり。宗門帳、寺院の奥書を閲すれば曰く、

右の面々代々、拙寺旦那に紛れ御座なく候に付、人別印形仕り指し上げ申し候。もし御法度の宗門の由、訴人御座候わば、拙僧罷り出で、急度申し披(ひら)き仕るべく候。後日のため、依って奥書印形仕り候処、くだんの如し。

按ずるに、徳川幕府の初めに当り、耶蘇教を禁ずると同時に、宗教の保証を寺院に委任せしを以って、今日の戸籍簿はこれを宗門人別帳と称し、毎戸の人員、名字、年齢を列記し、何宗何寺旦那と標記し、寺院の証印を受け、領主へ提出せしものなり。これ耶蘇教ならざるを証明せしものにして、戸籍上の関係より、むしろ宗教上に関する重要政策なりしなり。故に当時の寺院は、その旦(檀)家をして、常に僧侶の前に叩頭せしめしは、この一個の宗判ある所以(ゆえん)なりとす。また庄屋の奥書は、
※ 叩頭(こうとう)- 頭を地につけておじぎをすること。

右人別,並び旦那寺奥書印形、村中皆々立合い、吟味仕り候処、相違御座なく候。勿論、人別帳に、はずれ申す者一人も御座なく候。その為、判形差し上げ申す処、よって件の如し。

右の如し。然るに明治維新となり、寺院の宗判を廃し、宗旨は人民の自由帰向となり、寺旦の関係は全く従前の連鎖を解くに至れり。
※ 帰向(きこう)- 心がある方向に向かうこと。
※ 寺旦(じだん)- お寺と檀家。
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