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5月20日、杖ノ渕から義安寺まで

(霊跡「杖の渕」)

(昨日のつづき)
重信川を渡り、松山自動車道を潜って、西林寺の手前、左折して進んだ先に「杖の渕」がある。弘法大師と水との関わりの伝説は、四国には山ほどある。伝説の内容もワンパターンで、「杖の渕」もその一つである。「杖の渕」に行く前に、角のうどん屋「瓢月」で昼食を摂った。もちろんうどんである。

「杖の渕」は一体が公園になっていて、日曜日とあって家族連れなどで賑わっていた。そういえば、マメ名人さんも子供を連れて何度か来たことがあると聞いた。底から水の湧き出る池があり、その池から出る流れを中心に出来た公園である。池の真ん中の島に小さな祠があって、西林寺の奥之院になっている。自分一人、大きなザックを背にした遍路姿でうろうろするのは、何となく気が引ける。「杖の渕」は名水になっているようで、水を汲む人たちがいる。一口飲ませて頂く。悪い水ではないが、冷たくないので、美味しさを感じにくい。

西林寺では「同行二人」コンビに再び会った。彼らも食事をしてきたという。西林寺を出ようとする頃に「チョイ悪」さんにもあった。食事もしないで歩いてきたようだ。次の浄土寺はバス遍路で賑わっていた。境内でアイスクリンを売っているおじさんから一つ買う。3年前の11月に通ったとき、寒々とした中で、今日は売れないと話していたおじさんが居たと話す。販売は11月までだが、その頃はよほどいい天気でないと売れないという。後で確認すると、3年前に見たのは浄土寺ではなく次の繁多寺だった。やってきた「チョイ悪」さんも勤行前にアイスクリンを買った。食事をしていないから、お腹がすいているのだろうなと同情する。

繁多寺の境内からは松山市が見晴らせる。住職であろうか見回りにきたらしく、雨が来そうな空になったとつぶやいた。晴れているけれども、市街地の向こう、海上の空が暗くなっていた。

「同行二人」コンビに少し遅れて、石手寺に着いた。石手寺も衛門三郎と関係の深いお寺である。由緒によれば、伊予の国主河野氏に長男が生まれた。その子は左手に「衛門三郎」と書かれた石を握っていた。その子は「衛門三郎」の生まれ変わりだといわれ、その石が納められた安養寺は、「石手寺」と寺号を改め、石は寺宝となっている。

石手寺の境内は参詣する人々で賑わっていた。男性が近付いてきて、石手寺境内の案内図を寄越し、本堂と大師堂の場所を教えてくれた。確かに境内は様々な神仏を祀ったお堂が入り組んでおり、初めて来たお遍路は戸惑うに違いない。ちょっと胡散臭さを感じながら、荷物をベンチに下ろし、頭陀袋を下げて勤行に行く。納経印をもらってベンチに戻ってくると、荷物が三つに増えて、かの男性がベンチに坐っていた。どうやら荷物番をしていてくれたらしい。そこへ「同行二人」コンビが戻ってきた。二つの荷は彼らの荷物だった。駅のそばのビジネスホテルへ行く「同行二人」コンビに、かの男性は地図を書きながら、松山市駅とJRの松山駅が紛らわしいから間違えないようにと話している。どうやらこれが彼なりのお接待だったらしい。お遍路さんの荷物が狙われる事件が時々あるようで、荷物を見張っていてくれたのである。一瞬にしろ疑った自分を恥じた。

「同行二人」コンビとは石手寺の前で別れた。ポツポツと雨が降り始めた。繁多寺の坊さんの予報が当ったようだ。幾つものお寺や霊跡を巡った日の締めくくりとして、義安寺にお参りした。石段を登るとこじんまりしたお寺であった。おばあさんが一人、お祀りされている諸仏一つ一つに、叮嚀にお参りしている。


(義安寺)

義安寺は、通称、お六部(ろくぶ)さまと呼ばれている。六十六部廻国行者が当寺で非業の死を遂げ、その行者を祀っていることから、そう呼ばれるようになった。かつて六十六部あるいは六部と呼ばれた廻国行者がいた。法華経を納経するため、日本国六十余州を廻国した修行者である。

小雨に終われるように、本日の宿、にぎたつ会館に入った。
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