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5月20日、網掛石、文殊院、札始大師堂

(網目模様が見える「網掛石」)

5月20日は、久万から三坂峠を下って、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺と、札所を6ヶ所も打つ忙しい日であった。次の日はマメ名人と逢う予定も決まっていたから、計画を外すわけにはいかない。こんなに忙しい日のことを、ブログでは簡単に触れているだけであった。そこでその日のことを順を追って書こうと思う。一日では書ききれないかもしれない。

朝、桃李庵を「チョイ悪」さん、「宿修行」さん、自分、「同行二人」コンビの順で出発した。三坂峠の手前で、足が痛いと託っていた「チョイ悪」を抜いた。三坂峠の下りは、詰めて痛い右足親指の爪をかばって、ゆっくりと下った。途中で「同行二人」コンビに追い付かれ、先に行って貰う。その先の休憩舎で二人は一服していたので追い越す。「同行二人」コンビは頻繁にタバコ一服タイムを取るので、一日、追いつ追われつのお遍路になった。

坂本屋は今朝も早すぎてまだ閉まっていた。前回、牡丹餅でも食べていかんかねと声を掛けられた農家がどこだったか、探しながら下ったが、それらしい家が見付からなかった。

「網掛石」の霊跡は峠をほとんど下ったところにあった。前回、網掛け大師堂は見たが、「網掛石」を見逃していた。大師堂に参り、はて「網掛石」はどこかと探すと、遍路道の向かいの路傍にあった。大師堂に気を取られなければ道沿いの「網掛石」は必ず目に入るはずである。その岩肌に網目模様がはっきり見えた。

案内板によれば、弘法大師が大きな石を網に入れて、天秤棒で担いでいたところ、棒が折れて、石が山へ飛んで行った。石の一つは下の川に落ち、もう一つがこの石である。表面に無数の網目がついているところから、「網掛け石」といわれるという。

四国には、弘法大師がからむ、この類いの言い伝えがたくさん残っている。一見荒唐無稽の話が多く、だから歴史的には価値がないと判断されるものが多い。しかし、歴史は人が作るもので、人間なしに歴史は存在しない。人が言い伝えたことはそれだけで歴史であると思う。庶民が弘法大師を崇敬する余り、創作した話が、幾世代も話し継がれたとすれば、そのこと自体が庶民の歴史である。自分はそういう話を創った人たちに大変興味がある。また、伝説の裏にある情報、例えば、この伝説から、弘法大師と土木工事の関わりを考えてみるのも大変興味を引かれる。

追い付いてきた「同行二人」コンビに「網掛石」を示して、先へ進んだ。

バス遍路で込み合う、浄瑠璃時、八坂寺を打って、別格第九番文殊院に寄った。マイクロバスのお遍路さんが数人いただけで、静かな小さいお寺であった。ここは今年別格20寺の当番寺で、数珠玉を数珠にまとめるための親玉は、ここだけでしか販売していない。毎年当番は変わるというから、何年かかけて区切り打ちをしていると、親玉を手に入れるのがちょっと難しいことになりそうである。


(文殊院の、弘法大師像と衛門三郎、その妻の石像)

文殊院はお遍路の創始者、衛門三郎の邸宅のあった跡に建っている。近辺に八塚があり、衛門三郎の8人の子供の墓と伝わっているが、墓は古墳時代のもので、時代が会わないから、これも伝説の一つであろう。

文殊院の納経所には若い坊さんが居た。そばに九官鳥が居たので、何かしゃべりますかと聞くと、何もしゃべらないとそっけない。「南無大師遍照金剛」ぐらい教えなくてはならないですねというと、もう成鳥になっているから教えるのは難しいと、なかなか会話が広がらない。

番外霊場の札始大師堂には前回にも立寄った。衛門三郎は、弘法大師に謝罪し許しを得るために大師を追って遍路に出る。その最初に打ったお堂が札始大師堂(小村大師堂)である。かつて弘法大師もお泊まりになったといい、松の木の下にお堂があって大師像が祀られていた。そこに最初の一晩過ごした衛門三郎は、木を削って札を作り、自分の名前を書いてお堂に納めた。これが納め札の始まりと言われている。(つづく)

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