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5月15日、究極の野宿遍路 つづき

(讃岐の風景には溜め池がある。高松市内にも溜池が残り、
今はウォーターフロントで、市民の憩いの場になっている)

5月15日、究極の野宿遍路の男性の話は続いた。

四国八十八ヶ所のお遍路はもう十分だと思い、その後、四国曼荼羅八十八ヶ所を回った。それも終わり、現在は四国のお不動さん三十六ヶ所を巡っている。これは36回巡るように、納経帳に印をもらう欄が出来ている。現在は11回目を歩いている。

八十八ヶ所の札所は、バスツアーなどの参拝が多くて、ゆっくり話もしておれないほど忙しく、個人のお遍路が行っても、ゆっくり応対してくれないからつまらない。その点、四国曼荼羅やお不動さんのお寺は参拝者も少なく、時間がゆったり流れていて、個人のお遍路さんにもゆっくりと応対してくれ、お接待を頂けたり、いろいろなお話が出来たりして楽しい。かつては八十八ヶ所の札所でも普通にあった、お遍路とお寺のふれあいであるが、今は失われてしまった。

今歩いているお不動さんは一回りするのに半年はかかるから、36回巡るのにあと何年ぐらいかかるだろうか。しかし途中で果てるようなことになっても、全く悔いはない。願わくば長く患うことなく、ぽっくりあの世へ行かせてもらいたい。お不動さんにはいつもそう御願いしている。これだけ御願いしているのだから、願いはきっと叶えてもらえますよと皆さんに言われている。

これでも定年を迎えるまでは仕事もばりばりこなし、プライベートでもパソコンを何台も持っていて、デイトレーダーに近いこともやっていた。しかし、定年と同時に、パソコンや携帯などの機器類はすべて捨てた。たくさん持っていたガード類も、預金を引き出すカードを残して、すべて解約した。だから子供たちから自分へ連絡する手段は全く無い。

それでは子供さんたちは心配じゃあないですかと聞いた。自分はもともと神秘的なことには興味があった。あの世はあるのだろうかということについて、子供たちとよく話し合った。自分も昔は半信半疑であった。子供たちにあの世があると思うかと聞くと、判らないと答える。判らないなら質問を変えて、あの世があった方が良いと思うかと聞けば、それはあった方が良いに決まっていると答える。あれば、おじいちゃんやおばあちゃんなど、亡くなった人にあの世へ行ったら会える。だからあった方が良い。それじゃあ、あの世はあると考えようじゃあないか。

そんな風に話し、小さい頃から何度も言い聞かせてある。自分がどこで野垂れ死んでも、あの世に行けば会えるのだから、何も哀しむことはない。だから子供たちは心配していない。あの世はあると言い続けてきた結果、自分も刷り込まれて、今はあの世はあると信じて疑ってはいない。

それでも、子供たちは心配なはずで、野垂れ死にを誰も望んでいないはずと思った。彼の話に奥さんの話が一切出て来なかった。若くして亡くなったのか、離婚したのか、影を引かないほど昔のことなんだろうと思った。どちらも聞いてはいけないことのように感じて、口にはしなかった。
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