平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
通訳さんと歩いた一日
金比羅さんのふもとに泊まりながら、金比羅さんにはお参り出来なかった。今日の宿はかんぽの宿坂出に取ってあるから、一日、目いっぱい歩かないと届かない。朝6時半の食事を宿の女将さんにもっと早くならないかと注文をつけていた。5時過ぎに起きたところ、5時半に朝食の準備が出来たのコール、こちらがまだ準備が出来ていない。6時に食堂で朝食、結局食事は自分ひとりで、ただ素泊まりの長期滞在の人が何人かいるようであった。
宿の女将さんの協力のおかげで、6時半には歩き始められた。6キロほどまっすぐの道を歩いて、ようやく88ヶ所の遍路道に戻ることが出来た。そこで、横合いから合流してきた通訳さんに会う。宿が同じかんぽの宿ということで、一日付いたり離れたりしながら、ほぼ同行することになった。
金倉寺、道隆寺と、オランダ人の男性二人と顔を合わせる。おはようというと、グッドモーニングと帰ってくる。道隆寺でのこと。そのオランダ人におばちゃんが何やら話している。ハズバンドがどうのこうのと聞こえるが、おばちゃんの話はハズバンド以外は日本語で、日本語を全く理解しない二人はチンプンカンプンである。オランダ人の若い方が通訳さんのところへ来て、おばちゃんが何を言っているのか聞いてきた。すでに前に何度か英語で会話をしているから、姿を見て頼ってきたらしい。
通訳さんはおばちゃんから話を聞き、オランダ人へ何やら英語で伝えると、解かったようでおばちゃんに、オー、サンキュウなどといっている。おばちゃんのご主人が亡くなって、お遍路に来たのだが、ご主人が趣味でひょうたんを作っていて、その中の小さいものをたくさん持ってきて、お遍路さんに配っている。貰っていただければご主人の供養になると思ってのことである。それをこのオランダ人にも渡したので、これは何かと聞いていたのであった。
ぺらぺらとしゃべってすぐに理解させてしまう、通訳の実力をすごいですねとほめた。昔、少し英語を使って仕事をしていたので、でもほとんど忘れてしまってと謙遜する。尊敬の気持ちを持って、「通訳さん」と名付けた。歩きながらお遍路のエピソードなどを話した。今回何度かに区切っての初遍路で、ゴールが迫った現在、目下の通訳さんの関心事は、結願したらまた来たくなるものなのだろうかということであった。
時間が経つと苦しかった思い出などは最初に消えて、楽しかった、感動した、そんないい思い出だけが残り、また来たくなるものらしいですよ。自分も2度目のお遍路に諸般の事情があって3年待ちました。中には毎年春に来ている人にも何人も会いました。通訳さんもそこのところがよく理解できないという。あの喫茶店の女主人、名物宿の主人や女将さん、お接待を受けた人等々、また会いたくなってくるものです。
郷照寺のあと、記憶を頼りに、製麺所で食わせるうどん屋へ誘った。前回立ち寄ったときは客は2、3人しか居なかったのに、今日はどういうわけか満員で、少し待った。席が開いて座ると長テーブルに10人ほどが付いて、和気藹々とうどんを食う姿は、殊に今日は事務員らしい女性が多くて、悪くない雰囲気であった。やがて、女性たちのお代は専務と呼ばれた男性が払うらしくて、領収書を貰っているから、経費で落すつもりなのかもしれない。その一団が帰ると静かになった。
このあと、どうにも付いて行けなくなり、坂出の町で通訳さんには先へ行ってもらう。朝からけっこうたくさん歩いてきたので、足がかなり疲れているようだ。
「八十場の水」のトコロテン屋で、通訳さんはトコロテンを食べていた。前回そこでトコロテン食べたと聞いていたので、足が勝手に入ってしまったと通訳さんは弁解する。自分もトコロテンの黄粉と黒みつをかけたものを頼む。
(かんぽの宿坂出からの眺め)
直接白峰寺へ向かう道を二人で進み、松浦寺への別れ道でまた宿で会いましょうと分かれた。松浦寺は無住になって長いのだろう、建物が朽ちかけて酷いことになっていた。とても勤行をする雰囲気ではなく、そのまま通訳さんを追った。車道から参道へ入る休憩舎で休んでいた通訳さんに追いついたが、自分はしばらく休憩し、通訳さんは先へ登って行った。同じ宿とはいえ、食事時間がそれぞれで、今夜は会うことがなかった。朝食のバイキングで会ったら、名刺交換をしようと思った。本名も知らないからフロントに聞くことも出来ない。
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