平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
そろそろゴールが見えてきて考えた
今日、神野(かんの)寺を打って、別格20寺中、18寺を打ち終わった。88寺は75寺を終えて、残すところ、別格が2寺、88は13寺である。いよいよゴールが見えてきた。昨日夕食で話した男性はあと3日で終わると話していた。
朝から歩いて曼荼羅寺、出釈迦寺を打って、標高350メートルの捨身ヶ嶽禅定に登った。ふたこぶラクダの背のようなところに、この出釈迦寺の奥の院はある。さらにごぶの部分は鎖場などもあって、大師が幼年の頃修行したところと言われている。
登ってきた地元の男性に、弘法大師にまつわる地元の言い伝えを色々と聞いた。生まれは海岸寺が正しいのだろうが、善通寺と海岸寺では格が違いすぎる。善通寺で誕生寺と言っている以上、それが正しくなってしまう。(現に今朝の御影堂でのお勤めの際も、住職はこの奥の間で生まれたと言い切った)誕生後、間もなくして善通寺へ引き取られ育てられたことは確かであろう。
すぐそばの仙遊寺は幼い大師の遊び場だった。勉強したのは出釈迦寺の奥の院(捨身ヶ嶽禅定)と言われるが、この坂は、今は車で登れるような道になったが、10年ほど前は山道で、雨でも降れば水路となって登れたものではなかった。車道に改良されるまでは、お参りに行く人たちはジャリを一握りずつ持って上がり、道の改修に協力したという。大師といえども子供の足で日々通うのは無理があると話す。
甲山寺は通う道の途中にあり、一休みする場所として寄進を受けたところである。今も洞窟が残っている。このように、この近辺には大師が子供の頃に暮らした場所として、様々な痕跡が霊蹟として残っている。
そんな話を夕食時に宿のおばちゃんに話すと、捨身ヶ嶽で大師が身を投げたという伝説について、どんな理由があったにせよ、身を投げるほどの理由だったのかどうか、その点を聞いてみたらよかったと口を挟む。理由によっては幼い大師の人生相談に乗りかねない言い方であった。確か、自ら身を投げることによって、庶民を救うという宗教的な理由があったはずだが、そんな答えでは納得しそうになかった。
満濃池と神野寺のことも書きたいと思ったが、今日は眠くて半分寝ながら書いている始末で、またの機会にする。
とにかく6月になって暑さが増し、一日歩いて体力を消耗し、金比羅さんに宿を取りながら、金比羅さんに登ることを断念してしまった。金比羅さん詣では主目的ではないし、たくさんの観光客に好奇の目で見られるのも本意ではない。今日の歩いた距離を計算してみると、34.4キロもあった。きつかったのも納得の距離である。
そこでゴールに向けて、今考えているのは結願を早めようということである。幸い梅雨はまだ始まっていないが、その分、日差しは夏の暑さと変わりがない。今考えているのは、結願を6月7日、一番まで戻るのが6月8日、高野山への報告が6月9日で、その日のうちに自宅へ帰るように計画を変更することである。まだまだ流動的ではあるが、そんな方向に向けて明日から行動する。
今夜の泊まりは金比羅さんの、民宿たからや旅館である。ちなみに明日は五色山のかんぽの宿坂出に予約が取れた。それは良かったが、明日は土曜日で割り増し料金になると聞き、半分がっくりであった。
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