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今、考えている その6

(裏の畑に咲いた、何の菜の花?)

「今、考えている」シリーズも6回目になる。書きたいことがたくさんあって、しかし、一回の書込みでは結論が出せそうにない。そんな思いを何とか書き込みたいとこんなシリーズを始めてみた。一回ずつ、芯があってないような書込みで、先の見通しがあって始めたものでもなく、話がどちらへ流れて行くのか、自分でも判らない。

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超能力の話であった。原始のころには人間は誰でも超能力を持っていた。しかし現代ではごくわずかな人が超能力の残滓を引きずっている。いたこ、占い師、宗教家、預言者、修験者、祈祷師、霊能者、超能力者などと呼ばれる人たち。その中ににせ者も多いから注意が必要である。他の人に見えないことが見えるということは大きな苦しみでもある。この人は近いうちに死ぬと見えてしまうことが繰り返されたら、尋常な神経の持ち主ならば平常ではおられない。

見えすぎてしまう人が取る方向は、その能力を放棄して普通の人になろうとするか、その能力を利用して職業にするかであろう。放棄するには知恵の木の実を食べることである。世間のいろんな知識を身につけていくことで、見える能力はどんどん薄れていく。この能力の退化は早い。娘のころは良く見えた女性が結婚するころには普通の人になっているのは良く聞く話だ。

人間は原始には超能力を誰でも持っていて、現代でも超能力を持つ人がいるとするならば、自分も超能力を持ちたいと思う人が出てくるのも不思議ではない。

かつてこのブログで、仙人になりたいという年上の友人のことを、書き込んだ。彼は仙人と表現したが、ある種の超能力者になりたかった。先人に習って山野を駆け巡り、断食をしたり、修行と言われることもしてみた。しかし、彼は70歳を越した今でも仙人にはなれずに唯の人である。

普通の人に超能力を開発することは容易ではないけれども、決して不可能ではないと思っている。ただし自分には無理であるが。
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