河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2129-    CSIS-13 行ってきました

2016-06-06 21:41:42 | まち歩き

これに行ってきました。

第13回 日経・CSIS共催シンポジウム

激動する東アジアと米国の指導力

朝ちょっと早かったのですが、なんとか頑張って。


色々とありますが全般的に、今の米から見て日本のことはあまり濃くない印象。

おりしも、今日開催の「第8回米中戦略・経済対話」があったからかと思えば腑に落ちるところもある。

疲れました。

お土産に今日の夕刊もらいました。


2128- グラス、コンプリート・エチュード、滑川真希、久石譲、フィリップ・グラス、2016.6.5

2016-06-05 20:57:53 | リサイタル

2016年6月5日(日) 3:00pm‐6:05pm トリフォニー

フィリップ・グラス コンプリート・エチュード

エチュード・パート1  (duration)  62′
1,2   ピアノ、フィリップ・グラス
3,4   ピアノ、久石譲
5,6,7  ピアノ、滑川真希
8,9,10 ピアノ、フィリップ・グラス

Int

エチュード・パート2  (duration)  67′
11,12,13,14,15  ピアノ、滑川真希
16            ピアノ、久石譲
17            ピアノ、フィリップ・グラス
18,19,20       ピアノ、滑川真希

Int

トーク 20′
司会者からの質問等に答える (順番に)
フィリップ・グラス、
久石譲、
滑川真希、
フィリップ・グラス

以上


2回の休憩入れて3時間越えの長い演奏会になりました。
エチュードはパート1,2、演奏自体はそれぞれ40分レングスだと思いますが、奏者入れ替えに時間が少しかかるのと、演奏自体全般的に叙情的な印象をもちました。ので、それぞれ1時間越え。中身の濃い充実したものでした。

グラスはどこかで見たことがあるかもしれませんが今は思い出せません。彼の自作自演を聴くのは初めて。
時刻が来たところで、ベストをラフに着た感じで、スタスタとあっさり登場してあっさりと弾き始める。いきなりグラスワールドに突入です。
CDでの聴込みはあるとはいえ、こうやって生でそれも本人が弾くエチュード、最初の2曲をまず彼が弾いたわけですが、甘いスウィートなメロディーラインが結構、自然に強調されているように感じる。ミニマルなリズムを終始、鍵盤を押すことの繰り返しにより持続させていくのが難しいのか簡単なのかはわかりませんけれども、そのリズムに乗せてメロディーラインがよくわかるプレイ。この最初の演奏がテンポ等も含め、そのあとの二人の奏者の目安になるものだろう。
グラスは譜面無しで2曲。そして次の2曲は久石さん、譜面台をセットし、椅子を取替えたりと少し間が空くが緊張感は保持されている。テンションが切れないリサイタルです。
久石さんの奏する2曲は共感とともに技術的な部分でのこともふと脳裏をよぎったりする。
スペシャリスト滑川さんはその次の3曲。譜面台をはずし、椅子を変え、滑川さんの場合は譜面をピアノにじかに置く。演奏は、言わずもがな、板についていると言いますか決定的なもの。夫のデニス・ラッセル・デイヴィスDRDが思い浮かぶメリハリの効いたしっかりとしたプロプレイヤーとしてのライブ・グラス・ミュージックでした。
パート1はDRDの依頼により最初6曲、それにあとで4曲足して10曲としたものとのこと。滑川さんは、5,6,7曲と言う具合で6曲目をまたいで演奏と言うことになるかと思います。これらピース、彼女の演奏で非常に引き締まったパート1となった。別タイミングで作曲されたものがあるとはいえ、その基本的なメロディーラインはずっとあるような気がするし、そのあたりさらにクリアになる演奏だ。
パート1の締めはグラスが再び登場。あっさりと始まる。滑川さんのあと、曲想の違いもあるが少しゆるりと。速いパッセージの指の回転も素晴らしいもので、ちょっと縦にスタッカート気味になったり、と。
ここまで全10曲、モードが似ている。雰囲気に統一感がある。一つの作品を聴いたという実感がありました。充実の1時間越え。

休憩をはさんで、後半パート2、ここは滑川さんが10曲中8曲のプレイ、事実上、彼女のリサイタルと言う感じでした。
このパート2は、パート1とは違い後年プロ・ピアニストのために書かれた作品で、久石さんグラスさんは、それぞれ無難な曲を顔見世的に1曲ずつ弾いた印象です。
全体の音楽的な充実感はこちらが上と感じる。それに滑川さんがほぼずっと弾き続けたのも良くて、演奏の安定感からくる作品の視界が広がっていくさまがよくわかるもの。
最後の20曲目はそれまでの音楽とはがらりと様相を変え、甘い甘いスィートスィートなロマンティックでメロディアスでメランコリックでマンハッタンのディープな夜想曲のような具合。滑川さんによるとこの曲想は同時期のゴッドフリー・レジオ監督の映画「ビジターズ」の音楽的な雰囲気が漂っているとのこと。
でも、それよりもなによりも、ミニマル・エチュードのそれまでのピースとはまるで異なるものを最後に置く意味ですよね。ブラインドで聴かせたら誰もグラスの曲とは思わないのではないのか、まるで違うものなのだ。グラスは自らのミニマルになにか安息の終止をうたせたいのではないか、終焉を自ら招こうとしているのではないか。創作の意欲はいつまでも強くあるべきとグラスの話はあるのだが、この長い作品をこうやって聴いて最後の最後にこのようなピースを置く、その意味合い、深く考えさせられるものがある。
ここは、作曲者本人はもちろんのこと、滑川さんやDRDにも是非とも訊いてみたい気がする。
彼女のナイーヴで炎が消えるような演奏に、かすかに聴こえてくるリズミックなミニマルの断片が途切れ途切れと、そして消え去る。
最高の演奏。


滑川さんには華やかさがありますね、スペシャリストとしての凄さ、それに表情もいい。3度出ることになりましたけれども、最初は赤いドレス、次はドレス風に着こなしたクリーム色主体の羽織風な着物にパープルの帯。最後に白黒のドレス。衣替えも鮮やか。

もう一度休憩をはさんでピアニストお三方へのインタビュー。実際はグラスが通訳無視のロングトークとなりました。
充実したスリー・アウワーズ・ロング・リサイタルでした。
ありがとうございました。
おわり

公演サイトはこちら(いつまで掲載されるかわかりませんが)
特設サイト

公演情報


2127- モーツァルト、ベートーヴェン、梯剛之、2016.6.4

2016-06-04 19:58:29 | リサイタル

2016年6月4日(土) 2:00pm 小ホール、東京文化会館

モーツァルト サルティの主題による変奏曲イ長調K460(454a) 9′
モーツァルト ピアノ・ソナタ第5番ト長調K283(189h) 6′6′6′
モーツァルト ピアノ・ソナタ第11番イ長調K331(300i)トルコ行進曲付き 12′6′3′

Int

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13悲愴 8′5′4′
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110 7′6′8′

(encore)
シューベルト 即興曲変ト長調Op90-3(D899-3) 6′

ピアノ、梯剛之


彼のコンチェルトは聴いたことがありますが、リサイタルはお初で拝見。
会場のせいかちょっと音がジャバジャバ感じた部分もありましたが、概ねすっきり、というより、あっさりという感じ。
ベートーヴェンは曲が進むにつれて、重さのようなものから少しずつ解放されて、なにかこう軽くなっていく。独特な自己解放感のようなものを感じました。滑らかなまろやかさのようなものが少し欲しい気もします。
悲愴にはいつも引き込まれます。随分と作品番号は若いのですが、聴くごとに曲の深みを感じます。作曲者が弾いている演奏を聴いてみたいものですね、タイムマシンで。
31番は音楽をもっと味わいたいという欲望にかられる。バタついたものではありませんが、軽い押しでさりげなく、とはなかなかいかない。そのような演奏を聴いてみたい。ただ、楽章が進むにつれて抜けていくようなところがありピュア、純化されていくような弾きに引き込まれていきますね。

前半のモーツァルトはひたすら弾きまくる感じでよかったと思います。曲の大きさが自然と出ますね。

最前列に聴衆とともに盲導犬がおりまして、ピアノのフォルテにびっくりして叫ぶことは無いのかちょっと気になったのですが、杞憂で、おとなしく聴いておりました。いい演奏でしたし。
おわり






2126- フィンランディア、ノスタルジア、ロマンティック、ネゼ・セガン、フィラデルフィア管、2016.6.3

2016-06-03 23:27:41 | コンサート

2016年6月3日(金) 7:00pm サントリー

シベリウス フィンランディア 9′

武満徹 ノスタルジア  13′
 ヴァイオリン、五嶋龍

Int

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調(ノヴァーク版) 19′16′11′22′

ヤニック・ネゼ=セガン 指揮 フィラデルフィア管弦楽団


2年前の来日の時の割とボロボロな演奏とは別物の素晴らしさに様変わりしたオーケストラ。オーケストラはほぼ万全、セガンも好調な棒。弦は張りがぐっと増し分厚さの手ごたえに並々ならぬものがありました。また、舞台の中心に向かって重力集中して締まったサウンドとなる様は本来のこのオーケストラの特質、カラーがよく出ていた。
いい演奏会でした。

セガンの呼吸は絶好調、強烈なブルックナー・オルガンサウンドが咆哮して1小節も置かずにピアニシモになる曲想、フォルテの頂点で息をすっと抜きピアニシモに移行する。極端な激変作品がセガンの腕で生き返る。その振り姿も理にかなったもの、生きている音楽を強く感じさせてくれるものでした。
主題のテンポは割と動く。リタルダンドはあまり無いが、各主題の締め部分へ向かってアッチェレランドが効く。表情が豊かであれだけ見ていたらとてもブルックナーを振っているとは思えないものがあります。プレイヤーは音楽のつくりをすべてセガンに任せていて、言われたとおりの音楽作りに必死になっている、オーケストラの姿はその響きに見事に反映されている。音楽は膨らみをもって歌う。素晴らしいブルックナーだ。
セガンはこのように進めていく。と、節目には折り目を付ける。余裕の音楽作りでして、顕著な例は、フィナーレのコーダ前の最後の強奏。決然と折り目を付けて音楽の形を整えてからコーダに入る。形式の理解と主張を強く感じる。
それとか、スケルツォはトリオの後の回帰スケルツォは明らかに最初より長めで手綱を緩めて音楽を自由に放つ。この解放感はブラスをはじめとした生き生きとしたリズミックな音の饗宴となり、続くフィナーレの律動へ、そして音響伽藍の第1主題へと連なる。ここらあたり、セガンの手腕に感服するしかない。つながっていく音楽です。巨大な終楽章、3主題がそれぞれ克明で非常にバランスのとれたものでした。テンポ設定は中庸の美学で妥当。

もうひと頑張りというところもあることはありましたね。緩徐2楽章に滑らかさが増すとさらにいいかと。第1主題ちょっと進んだところのチェロにホルンが混ざるところ、ここらあたり雑味なく演奏するのは難しいところではありますが、フィラ管なら、すっといってほしいですね。すっと。

とにもかくにも、今回はいい演奏会でした。次回来日ではさらに素晴らしい演奏を魅せてくれることになるでしょうね。

おりしも、この日、セガンがメトロポリタン・オペラの次期音楽監督になるというビッグなニュースが広まりました。思えば、モントリオールのメトロポリタン管弦楽団からメトロポリタンのオペラハウスへと、時の流れはビッグであった。
おわり


2125- ショスタコーヴィッチ、レニングラード、テミルカーノフ、ペテルブルグ、2016.6.2

2016-06-02 23:49:57 | コンサート

2016年6月2日(木) 7:00pm サントリー

ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番ハ長調 レニングラード 29′、10′、15+17′

ユーリ・テミルカーノフ 指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団


テミルカーノフが渾身の力を込めて振った第1音、だが、フルオーケストラ冒頭のその音がなかなか出てこない。弦が一人我慢できずにフライング気味に飛び出した。
スタイリッシュに高技巧に裏付けられたかつてのムラヴィンスキー時代のレニングラード・フィルのサウンドは面影をたどるようなものとなってしまったが、それでもこの1音目の遅れに世界最高峰時代のことがフラッシュバックした。やっぱり今でも凄いオーケストラだと。
これぞシンフォニック・オーケストラの醍醐味。一体感の素晴らしさは、この冒頭から曲が終わって指揮者が一人ずつプレイヤーを立たせるときのごく小さなワン・ポイントしぐさまで。日本のオケみたいに、えっ、誰、オレのこと?、みたいな、こっぱずかしいジェスチャーは皆無。プリンシパルだけでなくみんなわかっている、指揮者のコントロールとメンバー自らの納得の実感が見事にシンクロしているとしか言いようがない。これはゲルギエフ、キーロフからマリインスキーと彼らも同じようなコントロールを持している。
演奏の一体感はこうでなければならない。

Tの指揮はもはやそのようなコントロールさえ解脱した解放。全てのことをやりつくした後の解放感のような演奏アトモスフィア。自由な呼吸。昨年のビエロフラーヴェク、チェコ・フィルのわが祖国全曲のときも同様なことを感じましたけれども、肩の力が抜け全曲を上から俯瞰しながら棒を振っている。最初の音も最後の音も、最初から全て見えている。これらの演奏は実際に見てみないと呼吸の実感がわからないものかもしれない。彼らには自身の演奏ヒストリーの額縁がもしかして相応しいのかもしれない、これまで彼らが指揮してきた数々の演奏が寄り集まって昇華されていくような気配、ポーディアムでの音楽の核心だけが動いているようなその姿、先に進むことはここではもういいのかもしれない。安息の表現とも言える。

第1楽章のボレロ前のブリッジは果てしもなくコクがあり過ぎまくり。ここのパッセージ、非常にスローで長い。膨らみのある弦が意味ありげに揺れ動く。ここを聴けば彼のしていることをだいたい理解できるというものだ。
このあと音は極限まで行くのだが一糸乱れない演奏で、ブラスはじめ折り目がよくわかりモヤモヤしない。バンダ含めホルン8、トランペット3+3、トロンボーン3+3、チューバ1の布陣だが、別ポジションにバンダということではなくて一緒の吹奏です。指揮者になじみのある読響メンバーが頑張っています。
ブラスの炸裂、全楽器による強奏、聴きごたえ満点、ふと、この曲は戦後の回想ではなく戦中の作と、あらためて音によるリアリティーを感じないわけにはいかない。
2楽章のスケルツォはこの作曲家の他の作品よりもよりバランスした長さであり、巨大な7番であるがいびつなアンバランスを回避している。Tは落ち着いた指揮で安定感のあるスケルツォ。
緩徐楽章3楽章の冒頭はブラスのコラールから始まる。ここは決然と明確に。非常にメリハリの効いた語り口です。ニ長調のやにっこさと妙な安ど感が綯い交ぜになる。そしてそれがアタッカで続く終楽章の頭まで続くのだが、はてこの解決しないふっきれないものはなんなのかと。
提示部副主題のフルートによる3拍子の落ち着いたメロディーライン、ひと時の安息。これが同楽章後半ヴィオラで再帰(全音スコア練習番号137の3小節目、例としてバルシャイ&ケルン第3楽章12分30秒から)するのですけれども、これをTの場合、割愛していると思う。聴こえてきませんでしたから。
2010.5.11に読響を振った時も同じく感じたが、今回も同じでしたので確信しました。再帰が無いことによるニ長調は安楽の安定感を持つことなく、一定の緊張感をはらんだままのテンションで終楽章に突入していくことになる。
この日と同じ組み合わせによる1995.1.18-19の演奏(BMG BVCC38209-10)では演奏されていますのでその後の変化ともとれます。2008.5.22のヴィクトリア・ホールでのライブ録音は聴いていませんので、それは確認したいと思います。

やにっこいニ長調の緊張感のあと、終楽章で爆発するかと思いきや、曲は肩透かしをするかのようにピアニシモで長めのストリング音型とともに少しずつ律動を激しくしていく。ここらあたりはやっぱり5番とは似て非なる。そして曲の節(ふし)を最大限に優先したコーダ、高らかに歌い上げるフィナーレ、その自由さの中にオリジナルなロシアというものの強調を感じざるをえない。練習番号207からは、4拍子-5-4-3/2-4-3-5-3-5-3-5-4、と拍子を変えてくるが変拍子のトリッキーさはまるでなくて、ロシアの地の節を西欧的な譜面に描いただけのようなもので、まるで違和感のない極めて自然なものだ。
Tはことさら絶叫することはなく相応な節度をもって曲を締める。見事な演奏でした。

強靭なベースをはじめ分厚い弦群、やや細く品のあるブラス、クリアなウィンド。咆哮に一定の節度と自然なマナー、バランスを感じさせつつ最終的には巨大な表現、そしてあらためてあの戦争時代があったんだと実感させてくれる。名演でした。
ありがとうございました。

この日の演奏は2016.9.11にNHK、Eテレで映像が流れるとのこと。
可視で、宙吊りマイク13、床上マイク10、テレビキャメラ7(うちキャメラマン付き3)、と、たくさんありました。
おわり


2124- ローエングリン、新国立劇場、2016.6.1

2016-06-01 23:35:19 | オペラ

 2016年6月1日(水) 5:00-10:20pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
マティアス・フォン・シュテークマン リヴァイヴァル・プロダクション

ローエングリン

キャスト(in order of appearance)
1-1 伝令、萩原潤 (Br)
1-2 ハインリヒ国王、アンドレアス・バウアー (Bs)
1-3 テルラムント、ユルゲン・リン (Br)
1-4 オルトルート、ペトラ・ラング (Ms)
2  エルザ、マヌエラ・ウール (S)
3-1 白鳥
3-2 ローエングリン、クラウス・フロリアン・フォークト (T)
4  ゴットフリート

新国立劇場合唱団

飯守泰次郎 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
前奏曲 10′
第1幕 55′
Int
第2幕 86′
Int
前奏曲   3′
第3幕 58′

いいものとそうでないものがめったにないぐらいごちゃごちゃと混ざった上演でした。
ソリストはほぼ概ね素晴らしい、比して、オーケストラの具合はまるで、ローエングリンは毎日がぶっつけ本番、みたいな演奏でちょっとひどいものでした。小屋のオーケストラの雰囲気を地でいく感じ。それから、合唱、特に男声合唱は自分のポジションに着くまでもたもたしていてポジションに立つ前に歌が始まってしまっている。当然うまく歌えない方々も出てきてしまうわけで、後方は特にひどく、たしかにそのような合唱で、張り無し厚み無し。なんでこうなるのか。どのようなリハーサルをしてきたのか。
結局のところ、オーケストラと合唱の問題は指揮に原因がある。この指揮者がワーグナー独り占めするのではなくて、若くて旬な指揮者に振らせてみてはどうか。この日の問題点はかなり改善されると思いますよ。これ以下はないでしょうからプロなら。

それと、舞台もあまりよくない。第1,2幕と3幕は仕掛けも含めてまるで違うもの。この違和感。1、2幕は場面転換無し、動き無し、物も無し、ないない尽くし。3幕は場面転換含めかなり劇的に動く。シンシンとした幕とごちゃごちゃした幕、こうゆうの対比の妙とはいわず単にアンバランスと言う。

ソリストはフォークトはじめ脇も良く、このソリストたちに申し訳ないぐらい足を引っ張ってしまった問題指揮、残念でした。


第1幕のプレリュードはかなりスロー、それ自体は特にどうということもないが、小さくまとまった弦が凝縮してこってりとしたアンサンブルを聴かせてくれれば申し分ないところ、なんというか空気が希薄というか、単に響きの薄い音が聴こえてくるだけですぐに間延びしてしまう。この前奏曲で聴かせてくれないことにはこのオペラは始まりませんですよ。なにしろここの節(ふし)が終幕、ローエングリンの素性明かしの場での節なわけですからね。
このテンポは最後まで変わることなくて、とにかくスローと希薄がブレンドしてしまった弱体演奏でした。
ソリストたちは概ね良いものでしたが、この1幕は舞台のシンプルさも加わりフォークトはじめ棒立ちの歌。動きが無い。舞台全般、とにかく、さえないものでした。
テルラムント、国王は足を引っ張られることなく堂々とした歌で良かったと思います。

2幕の悪だくみ2人の位置対比はよくわかるものでした。オルトルートのラングはキャラクター風味の悪役なわけですが動きに切れが無くまた振付がうまくいっているのかも少し疑問。それと、ギネス・ジョーンズを少し思い出させる声のぶら下がり、ピッチが正しい位置に来るまでに少し時間がかかる。また、ピッチそのものも正しい高さなのか、よくわからなくなってしまうところがある。昔取った杵柄は大きいとは思いますが。
この2幕は全般的に振付、動きがきっちり演出通りなされているのか怪しい。一言でいうと粗末で、コントロールが効いていない舞台。

終幕になってようやく舞台が動き始めた。手遅れの感が無きにしも非ずで、その前までのことを無きものして、かつその上をいかないといけない。
結局のところ、この幕のエルザとローエングリンの長い長いシーン。それとローエングリンの素性明かしのフォークトのこれ以上ない絶品な歌唱。これに尽きる。これでそれまでの色々なマイナス点を払しょくしてしまい、まるでそんなことは無かったと忘れさせてくれるぐらい素晴らしいフォークトの歌で締めとなりました。
また相手役ウール、かなりじめじめした舞台にしてくれるエルザではあるが、このデリケートなエルザはありかなとも思う。じわじわと締めつけられるものがありました。途中から人格が乗り移ったか、フォークトが、われはローエングリンと名乗ったところ、ジャストタイミングで倒れた。入魂の演技でした。ここらへんは見ごたえありました。
ゴットフリートは1年務めあげずに元の姿に戻って舞台の下から上に舞台移動であがってくる。ここは説明が要る部分だとは思いますが、だいたい忘れてしまっている。
もう少しメリハリをつけたものが欲しい。白鳥も出して次にゴットフリートに変える、白鳥とゴットフリート、ふたつの存在を見せなければ劇的なものになるには弱い。
結局のところ、今回のローエングリンはフォークト、第3幕のためだけにあるようなもので、そのような意味では芝居小屋を見ているようなものでした。

それから、魔女のオルトルート、それに倒れて立ったエルザ、舞台上手にそれぞれのタイミングで行ってしまったわけで、あれ、違和感ありましたね。

棒の問題が浮き彫りになった上演でした。
おわり