河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2010- シベリウス2曲、大地の歌、ピエタリ・インキネン、日フィル、2015.11.6

2015-11-06 23:35:19 | コンサート・オペラ

2015年11月6日(金) 7:00pm サントリー

シベリウス  歴史的情景第1番op.25  5′6′8′

シベリウス  組曲「ベルシャザールの饗宴」 2′3′5′3′

Int

マーラー  大地の歌  8-9-4-7-4-28    62′(i含む)
  テノール、 西村悟
  バリトン、 河野克典

ピエタリ・インキネン 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

トーク・アフター・コンサート
ピエタリ・インキネン 約15′(通訳付き)


大地の歌は8番のイメージとはもはやかけ離れているとはいえ、9番とは響きのぶ厚さが随分と異なる。9番の分解した線の響きには至らず、大編成のオーケストラで迫りくるわけだが、情念のようなもの、感情や感性といったあたりのことが前面に出てきているように感じる。ぶ厚い響きの中、右左前後から色々なテクスチャが浮かび上がる。インストゥルメンタルなアンサンブルとも違う、各楽器の束が強烈に意思表示していて音楽の幅の大きさを感じさせてくれる。各パートの定位が克明でアナログ的な柔らかいアンプリチュードで一見モノフォニックなサウンドが結合した集合体の同時演奏のように聴こえてくる。
この日はP席で聴きましたので、残念ながら指向性の強い声パートはよく聴こえませんでした。
テノール、バリトンの組み合わせと言えばブンダーリッヒ、フィッシャーディースカウの組み合わせ、カイルベルトの棒、バンベルク響の伴奏の演奏を思い出します。
この組み合わせで一番印象的なのは最後の最後、フィッシャーディースカウがハイテンションで決めた高音一発芸、イーヴィッヒ。
この日のバリトン河野さんの声は後ろで聴いていても比較的聴こえてきました。
テノールはほとんど聴こえずでした。演後のちょっとご本人が中心的指揮者のような振る舞いはあまりほめられたものではないです。
明日も聴きますので楽しみですね。

前半のシベリウス2曲。歴史的情景は初めて聴く。殊の外、鳴りの良いもので、ときに作曲家独特の清涼な高弦の響きが美しく響く。ニュアンスに富んだ音楽で魅力的。ベルシャザールは少し作為が勝った曲と言えるかもしれない。
瞠目すべきはこれらを演奏している指揮者とオケ。
先般のラザレフのときとはがらりと音の表情を変えてきていて、両指揮者へのオーケストラの共感度の高さが良く理解できるもの。共感の度合いが高くテンションも高く張りつめている。歴史的情景のそれぞれの短いピースの中のちょっとした音楽の爆発でさえ音楽が生き生きと生きている。音楽のいい表現だと思います。
音楽に浸るよろこびを感じさせてくれる演奏ということですね。
おわり


2009- わが祖国、ビエロフラーヴェク、チェコ・フィル、2015.11.4

2015-11-05 12:24:26 | コンサート・オペラ

2009- わが祖国、ビエロフラーヴェク、チェコ・フィル、2015.11.4

2015年11月4日(水) 7:00pm NHKホール

スメタナ  わが祖国  16′12′10′12′13+14′

(enocre)
ドヴォルザーク  スラブ舞曲Op72 第1番  4′

イルジー・ビエロフラーヴェク 指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


2年前の来日のときと随分と顔の雰囲気が変わったように感じたビエロフラーヴェク。
指揮者の心のイメージがそのままプレイヤー全員に伝わった様な演奏で、ありきたりの言葉とは言えもはや枯れた演奏というしかない。指揮者の炎の核がまるで気張らず自在に表現される、こうなると指揮技術と言ったことよりそれらの積み重ねが自然にオーケストラに伝播し作用し、そのまま表現される。生きた音楽が今生まれるそのような気持ちにもなってくる。普通のコンサートではあまり感じたことが無いもので、チェコ・フィルの来日公演でかつて聴いた同曲演奏、マーカル、クーベリック、彼らの演奏も素晴らしかったが、この日のビエロフラーヴェクの演奏と言うのは晩年のノイマンが名演奏のCDを連発していた頃のことを思いだす。枯れた演奏と言う言葉以外見つからない。本当に気張らないもので、プレイヤーへの音楽の浸透が凄い。

プレイヤーの心に作用する指揮、オーケストラの心に作用する指揮。


1曲目の高い城、巨大な演奏でした。もはやこの1曲だけで前述の内容全てを感じた。このオーケストラ独特のせせらぎのような透明な流れ、1本の弦の音を感じさせつつそれが束ねられたような全弦の響きを感じさせてくれる。小川の中になびく草花のような具合のユラユラとした微妙に分解された響きは変わらずに聴ける。指揮者とプレイヤーの心より奏でられた音楽、音楽そのほうが感動に打ち震えているような鳴り具合だ。演奏するほうは飽くまでも演奏に没するのみ、自分たちが感動してはいけない。そこらへん見事というしかない。とにかく、行ったことが無いところに連れて行ってもらいました。素晴らしく大きな演奏。
曲は進むにつれスメタナの耳は聞こえなくなっている。この1曲目の巨大さが5曲6曲目にも欲しいところだが、そのようなことはもはや言うまい。
心の奥底にずっと残る演奏でした。
おわり


2008- ヨーロッパ・ツアー2015前の定期、大野和士、都響、2015.11.2

2015-11-03 17:36:55 | コンサート・オペラ

2015年11月2日(月) 7:00pm サントリー

ラヴェル スペイン狂詩曲  4-3-3-7

プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調  11-10-5
  ヴァイオリン、ワディム・レーピン

Int

細川俊夫 嵐のあとに (世界初演)  23′
  ソプラノ、スザンヌ・エルマーク、イルゼ・エーレンス

ドビュッシー  海   8-7-8

大野和士 指揮 東京都交響楽団


1991年アメリカ・ツアー来のヨーロッパ・ツアーに出かける前の準備体操演奏会。
ヨーロッパ・ツアーは2015.11.13、16、17、19、21、23 の6公演。
この日の演目4曲にチャイコフスキーの4番を加え、計5曲を組み合わせてツアー演奏を行う。

やるまえからなんだが評がどうなることか、ハードでビッグでドライなサウンドが伝統のホールを席巻、正確な演奏はまさにジャパニーズの特質をあらわしている、といったところか。

スペイン狂詩曲はそのタイトルに相応しいのかわからないほど静止したもの。それに音がとにかくでかい。強弱の振幅度合が、極端に音がでかいわけでもない他オケの振幅度合と同じなのかどうかわかりませんけれど、あちらが強くなればこちらはもっとみたいな雰囲気がある、特にティンパニにその気がある。終曲祭りの後半部のサウンドサイズにはあらためてびっくり。
全体に静止している印象で、大小響きが際立っている。鋭角でkeenなもので、ウェットさやエモーショナルな波打つ演奏と言うわけではない。

レーピンはもう何度聴いたかわからない、山ほどというわけではないけれど、点的ではあるが聴くチャンスは多いほう。
深く強い弾きで柳のようにしなやか、切れない音でそれが音楽そのもののように強くしなやかにシームレスに流れていく。このオケのサウンドに負けることなく、まるでオケのサウンドに隙間があってその隙間さえ埋めてしまうように聴こえてくる。
この協奏曲ではオケの人数がぐっと減るが傾向は変わらない。ニヒルな風貌のレーピンが正確にプロコフィエフを弾き、オケは軽妙に伴奏していく。理想的です。
ヨーロッパ・ツアーではレーピンに評が多く集まる気配がありますが、それはオーケストラのことをないがしろにするという事ですから、必ずしもいいとは限りません。外国の評ではよくあることです。スポットライトを局所的に当ててあとはスルーといった具合。この協奏曲での緊密な伴奏のこともピックアップしてほしいものですね。

後半の1曲目、細川の新作はこのオーケストラ創立50年の委嘱作品で世界初演。音楽のセンチメンタルな自然賛美、3.11のあと、音楽そのものを考え直すようになった、といったことから作られた。その前の作品群とランドスライディング的な作風の変化があるのかどうか、そうでもないと思いましたが。
前半は嵐、この作曲家らしくないと思えるような太鼓でのポンポコ表現での嵐です。あえて日本的とさえ思えるもので彼のしなやかな音楽とはたしかにだいぶ違う。方向転換に暗中模索、そういった足あと風なところはあります。
23分中、最初の10分ほどこのような音楽が続き、そのあと二人のソプラノによるヘッセの「嵐のあとの花」の詩を歌う。二人のソプラノは巫女で、一本のソプラノを二人に歌わせ陰と陽、光と影を。嵐が去り光の世界を少しずつ取り戻す。
ソプラノがハーモニーを成すわけではなく、むしろ枝分かれしていくように詩を歌う。広がりを感じるというものでもない。少し不思議な世界。暗い嵐の世界のあと、少しずつ光がさしこみ、その光がやがて黄色い色調の世界を取り戻し静かに沁みていく。

最後のドビュッシーの海、このオーケストラにマッチした曲とは少し違うのではないのかという思いが率直なところあります。もっともっとウェットな響きが空間をびっしりと敷きつめていかなければならない、ややもすると埃っぽくなりがちな海でそれはタイトルと一番かけ離れたもののように思える。それにそれぞれの表題に対し演奏の焦点が今一つはっきりしない。オーケストラの響きは達者な腕前を示すものでうなるものですけれど。
杓子定規な演奏を海の波のように乗り越えて本来音楽が内包する律動を生きたものとして表現してほしい思い。

なにはともあれ、日常の演奏会が一番大切、日頃の腕前をヨーロッパで魅せてきてほしいところです。
おわり


2007- トゥーランガリラ、鈴木優人、東響、2015.11.1

2015-11-02 14:20:09 | コンサート・オペラ

2015年11月1日(日) 5:30 - 8:15pm 東京芸術劇場

小出雅子 玉虫ノスタルジア、ウィンド・アンサンブルのための
 (Br-Sax版 世界初演)  7′
鈴木優人 指揮 芸劇ウィンド・オーケストラ

ストラヴィンスキー 火の鳥(1919年版) 吹奏楽版全6曲  21′
鈴木優人 指揮 芸劇ウィンド・オーケストラ

Int

メシアン  トゥーランガリラ交響曲 7-9-5-12-7 12-4-12-4-7  79′
ピアノ、児玉桃、
オンド・マルトノ、原田節
鈴木優人 指揮 東京交響楽団


1980年代中盤、小澤征爾&ボストン響がニューヨーク定期でカーネギーホールにオネゲルの火刑台上のジャンヌ・ダルクを持ってきたことがある。ステージ後方半分をかなり高くしてもうひとつ舞台を作りそこで歌い手たちが動き歌う。セミステージ、ホールオペラ風。小澤は暗譜で、それを初めて見た時は神業かと思ったものでした。
無理に暗譜しなくてもいいじゃないかという思いはありましたけれど、プレイヤーたちには際どい安心感のようなものがある気がします。聴衆側も微妙な心地よさのような雰囲気がありました。それは、指揮者が曲を知り尽くしているのだろうといった思いが周りにうまく伝播しているからかもしれません。それに若かったですし、彼の出てくる催しは全てイベントの様なおもむきがありましたしね。空気を変えるカリスマの棒でした。

1967年にトロント響といれたトゥーランガリラもたぶん前後した同曲の演奏会の流れでセッション収録したものと推測されますが、演奏会のほうはこれまたたぶん暗譜だったんでしょうね。暗譜棒は彼が演奏会に立ち向かうスタンスの一つであるような文を何かで読んだことがあります。
トゥーランガリラは1962年に彼が日本初演した曲でありその後、短いトロント響との結びつきの中で作られた録音。
トロントより前さらにそれに並走する形でニューヨーク・フィルを124回(*河童カウント)振りつくし、1969-1970シーズンはオープニングも飾っている。ボストン、サンフランシスコの前に一時代を築きニューヨーク・フィルをも制覇していた。
カリスマ的才能全開時代。

この日、一見するとストイックな感じの鈴木さんの棒を見ながら真逆だなぁとふと思い出したことでした。
才能の開陳、いろいろなパターンがあるものだなぁという思いを感じました。


トゥーランガリラはイントロ含め、1曲の中に緩急が複数出現するものが多い。緩急、テンポ、リズム、小鳥が走りリスが這う瞬間、海中のクジラの遊泳、そんな感じの種々雑多な若き天才のひらめきの一筆書き。インスパイアされた愛はとりあえず横に置き、そのような響きを堪能できる曲。スリルとサスペンスに満ちた瞬間天才技が一気に書き上げたように見えるのは遠く離れた光源のようにさえ思える。
東にそれがあれば出かけ、要は東西南北その曲が演奏会に上がるときはなるべく追っかけしてきました。この日もその一つ。結果は芳しいものではありませんでしたが、指揮者はひとつ踏み台を駆け上がったと思います。

全般に緩急の緩フレーズ、メロディーラインがあまりにルバートが効きすぎていて急部分とのアンバランスが目立つ。後半の曲への伏線となるメロディー浮き出るがつながりを感じる前に散漫となってしまう。曲想変化の前のリタルダンドも強調が過ぎる。
オーケストラは健闘しましたが、棒のポイントとなる位置と音の出がバラバラでかなりプレイしにくそう。ウィンドパートの人が横の人を見たりする局面もあり、リハをたとえ重ねてもそれ以前に問題があると思います。好調な東響だからここまでブリッジできた。

中で、4の愛の歌2回目は長丁場ですが交錯するリズムテンポをきれいなハーモニーで歌わせなかなか良かったと思います。見通しがきいた全体のフレーム感覚が冴えたものでした。彼の棒は、強めのフレーズのエンディングを左手でさっと切り上げるところがあり、そのまとめあげは小気味のよいものですが、次のザッツはその息を買って出てこずさっき書いたようなまだら模様になってしまい結果、散漫なものとなってしまう。ここらあたりはご本人もわかっているのではないでしょうか。不安定さは自分に不安さをもたらし、そのような中で確実に棒を動かして音楽を作っていくことができるのは緩の部分であり、どっぷりとしたルバートなメロディーラインは、この曲に対する自信が今一つということの裏返しのようにも聴こえてしまうのです。4への理解は深いと思いましたのでこのような流れを全体に広げていけばよいと思いました。
9の3回目のトゥーランガリラはひとつのテンポだけの曲であり冴えた振りでした。黄金色の東響の響き、ブラス、パーカッション、見事だったと思います。

それから曲が並列的に陳列されているように聴こえました。束ね感覚を自分なりに感じたまま、2011年にプレヴィンがN響を振った時のブログに書いてあります。

1306- オリヴィエ・メシアン トゥーランガリラ交響曲、アンドレ・プレヴィン N響2011.10.21

1307- 二日目 メシアン トゥーランガリラ、プレヴィン N響2011.10.22



児玉桃、原田節はもはや定位置。
8では9が始まるまで鍵盤の上に頭を伏せてしまった児玉はまるで気絶したかのようでした。これまであまり見ないパフォーマンスでした。その児玉さん、演奏終わったら良くやった良くやったと指揮者をねぎらう姿が微笑ましい。

児玉さんの赤いドレス、原田さんの赤い靴下、妙に合う。
おわり

PS
この日の演奏会は、東京芸術劇場開館25周年記念コンサートのひとつです。