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聴いた演奏会より。
1979年聴いた演奏会一覧はこちら
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昔、幻のムラヴィンスキーを名古屋で聴いた。
田園の最初の一音、フェザータッチのようなサウンドを聴いて、ああこれは並みのオーケストラとはまるで力の違うオーケストラだ、と一瞬にしてわかったのを今の出来事のように思い出すことができる。オーケストラのレベルがほかのオーケストラと全然ちがっていた。
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第2回名古屋国際音楽祭
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1979年6月2日(土)7:00pm
名古屋市民会館大ホール
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ベートーヴェン 交響曲第6番
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ワーグナー トリスタンとイゾルデ、
前奏曲と愛の死
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ワーグナー ジークフリート、
森のささやき
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ワーグナー ワルキューレ、
第3幕への前奏曲
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エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィル
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例によって当時のメモから
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今回で4度目の来日だそうだが、僕にとっては幻の指揮者である。あの長身で(190センチもあろうか)やせみの、そして眉が白くて頭が禿げ上がった容姿、そして、その指揮台に向かう足どり、第一印象はフルトヴェングラーそのものであった。
僕はフルトヴェングラーが出てきたと思った。音の作りも世間で言われているようなフルトヴェングラーと正反対のものではなく、むしろ似ていると思った。
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指揮台にあがるや、やおら眼鏡をつけ左手に指揮棒をもったまま無造作に右手ではいる。いかにも手慣れた感じだ。
田園はその音の開始から微妙なクレシェンド、デクレシェンド、そしてめりはりのきいた伸縮自在な変化に呑み込まれてしまった。
手の動きは楽員が理解しうる最小の動きと言ってもよいだろう。余計な動きは何一つしない。またソ連のほかのオーケストラがやるようなブラスの必要以上の強奏もしない。(もっとも金管のばかさわぎは現在ではソ連だけではないが)
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音を出すこと自体が音楽となる完全な雰囲気はどうすれば醸し出すことができるのであろうか。音楽の途中でしばしばでてくるソロはほとんど音の楽しみである。
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ムラヴィンスキーは主旋律をあまり歌わせることはしない。音楽は古典の形式そのもののように進む。(オーケストラ配置はヴァイオリン、チェロ、コントラバスが左側、ブラスが全て右という配置)
この田園もまるでハーモニーのかたまりのように整然と進む。まるでバッハかモーツァルトを聴いているような錯覚に一度ならずおそわれた。また楽章の切れ目や最後の終わりの部分も本当に味があるというか、整然としているがものすごく素晴らしい。
とにかく音楽に対する異質感がまるで感じられないというのはムラヴィンスキーの音の作り、考え方が素晴らしいからなのだろう。
100人の演奏家がまとまって指揮者のもとで一緒になって音を出したら「田園」という音響が築かれた。
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とにかく超絶的なバランスである。このごろよく聴かれるようなブラスがうるさくて、弦が聴こえないというような現象はまるでみあたらない。
ぶ厚い弦、奥深い低音、節度をわきまえたブラス・セクション、どのパートをとっても申し分ない。指揮者の完全なコントロールなのだろうが、まるでその気配がない。
ムラヴィンスキーの指揮するベートーヴェンの交響曲を全て聴きたくなった。その、他を圧倒する力は筆舌に尽くしがたいと思われる。
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フルトヴェングラーとムラヴィンスキーがだぶってみえてしょうがない。
過去なのだろうか。
いや現在と共同している。
フルトヴェングラーもムラヴィンスキーも。
すばらしい音楽。
幻である。いまだ。
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というメモでなにがなんだかよくわかない状態で、前半の田園で完全に打ちのめされ、後半の爆発的なワーグナーのことをなにも書いていない。後半のワーグナーを忘れてしまうぐらい田園が素晴らしかった。ムラヴィンスキーの魔法のタクトにやられたということだろう。
後半のトリスタンや森のささやきもワルキューレの騎行もとんでもない演奏だったはずなのに、ワルキューレの騎行のことをかすかに覚えているだけだ。フルパワー、全開のワルキューレは、当時当地でみた映画、地獄の黙示録とだぶる。どっちを先に観たのかおぼえていないということはあるけれど。
おわり
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コメントありがとうございます。
ムラヴィンスキーは自力でその解釈を発展させた指揮者だと思ってます。
有名なベト4の解釈を聴くと伝統の姿ではなく自分の内面から、自分の力で自力でここまでもってきたという感を強く感じます。
一方、フルトヴェングラーは伝統の塊みたいな印象がありますが、実はそうではなく、伝統はバックボーンではあったが、無から自力で演奏解釈を生成した音楽家と思います。
双方一見両極端な解釈だが、結果は同じ圧倒的な力に屈服してしまいます。