河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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992- 神々の黄昏 ワーグナー ウォーナー エッティンガー オペラパレス2010.3.27

2010-03-28 17:10:41 | インポート

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3月18日
3月21日
に続き連々投で神々の黄昏を観劇。
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2010年3月27日(土)14:00-20:20
新国立劇場、オペラパレス
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ワーグナー 神々の黄昏
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キース・ウォーナー演出
ダン・エッティンガー指揮
東京フィル
新国立劇場合唱団
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In order of appearance
ノルン
 1N 竹本節子
 2N 清水華澄
 3N 緑川まり
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ジークフリート クリスティアン・フランツ
ブリュンヒルデ イレーネ・テオリン
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グンター アレクサンダー・マルコ=ブルメスター
ハーゲン ダニエル・スメギ
グートルーネ 横山恵子
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アルベリヒ 島村武男
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ヴァルトラウテ カティア・リッティング
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ヴォークリンデ 平井香織
ヴェルグンデ 池田香織
フロースヒルデ 大林智子
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2004年初演時は6回公演でそのうち3回観劇。今回の再演は5回公演で3回観劇。十分楽しみましたのであまり言うことも残っていない。
最近の公演では2006年のマリンスキー劇場の演出は動きのないものであまり印象のないものであったが、ウォーナーの演出は評価は横に置くとしても記憶に残る演出であることは間違いない。楽しめたプロダクションでした。
カミタソでは舞台の前景での歌の場面が多く、横の広がりの小ささとともに、客席側への窮屈感がある。舞台の奥行きを活用したいがためにかえって前方に詰め込んでしまった。第3幕でのジークフリートの背中を槍で刺すシーンも、その窮屈ななかで行われる。その後の葬送行進曲で奥までたどり着かなければいけないような演出なのでそうなってしまうのだろうが、装置が大掛かりな舞台ではあるが制約も大きいということか。
音楽は軽く感じる第3幕冒頭から、この葬送行進曲で急に重くなる。ヘヴィー級への転換はエッティンガーの棒でさらに限りなく重くなる。エッティンガーはすべてやりすぎの感があるのだが、この葬送行進曲のスローさはその最たるものだ。その時間的な長さと、このオペラ・パレスの奥行きの深さが見事に一致した局面ととらえることもできないではない。ジークフリートのフランツが間をはかりながら這っていく構図は不自然な速度ではない。この舞台と音楽が見事に一致したといえるかもしれない。演奏会コンサートであの速度でやられたら、もたない。
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最後のジグソーパズルが埋まったところで終わりと思いきや、奥手の扉が開き映写機による放映だったことを示唆する。このプロダクションが映画仕立てだったということをいっているのではないかと思う。過去現在未来といった時間軸的な示唆ではなく、単に今回、僕の演出は映画仕立てにしたんだよ、とウォーナーが言っているように思える。それ以下でも以上でもなく。ただ、
上の席だと見えないが、第3幕冒頭のライン川のシーン、舞台に向かって左上方には映写機があって、ライン川を映写している。ラインの乙女の動きとあわせフィルムを回したりとめたり。そうともとれるし、舞台全体が映画のように上演されていて聴衆はそれを観ているともとれる。さらにこの第1場では、三人のラインの乙女もハーゲンもフィルムを手に取り直接眺めている場面が頻発する。自分たちが映画上映されている中で眺めているフィルムの中身はなんなのだろうか。それこそ神々の歴史の一コマだったのではないか。今回のウォーナーの演出は映画仕立てではあるが、ときの流れ、権力の構造、遷移、出来事、事件、など映画仕立てのなかで出演者がみていたフィルムの中にこそ、それらが映し出されていたのだ。
映像、映画、テレビ、ビデオ、これらはこの演出のキーワード。
つまり、ラインゴールド冒頭における乙女とアルベリヒが映画館のようなところで上演されて観ていた映画、あれの中身ななんだったのだろうか。カミタソ第3幕の冒頭の動きと同じなのだ。
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その冒頭よりもっと前、本当の冒頭はヴォータンが客席に向かって映写機の強烈な光源のビームを放射するところから始まっている。ヴォータンがこれから始まる映画を観るためにあすこに座っていたのかもしれない。それがカミタソのラストシーンでは、現代の我々が上映を観ていた形で終わる。映画を観ていたヴォータンも映されたものだった。それともこの4夜の間にどこかで位相が変化したのだろうか。時間が、歴史が、ひとつ進行したのだろうか。最後のシーンは陳腐という人もいるけれど、意味は考えてみる必要がある。今回のようにこのキーワードが舞台の中に多発してあらわれる演出においては、もうひとひねり考えてみることも必要だ。
もう1、2世代まわると、リールが映画の上演の意味を示唆しているというキーワード自体が意味をなさなくなる。リールというハードとソフトの橋渡し役としての媒体、メディアがなくなってしまっているはずでこの演出自体、歴史に流されてしまうのは初めからわかっている。映写機のリールの意味が分かっている今だから成り立ったような演出。メディアがビデオデッキ、ハードディスクだったら、よくわけのわからないプロダクションになっていた。
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付け加えると、このプロダクションの冒頭の映写機のビームは、ハーリー・クプファーのプロダクションのラインゴールド冒頭で強烈なレーザー光線が動きをもって照射されるシーンからのイメージの連鎖であることは明白と感じる。その意味でも、陳腐ではないが、既に歴史の一コマとしてのトレンドの神棚行きも感じられたのだった。
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歌い手では群を抜くテオリン、フランツではあるのだが、近くで観てみるとわかるように今回の演出では小物、小道具から振付まで非常に細かいものでありそれを一番よく表現していたのはハーゲン役のダニエル・スメギだ。グートルーネの股を開いたり、脱ぎ捨てたジャケットの匂いをかいだり、ここらあたりは遠景でもわかるが、アルベリヒの殺害、自身に注射をして快感を感じるあたり、グンターの注射殺し、さがせばいろいろでてくるが顔の表現が目まぐるしく変わる。このヒール役になりきっているのがよくわかる。体躯のバランスもよく、シルエット的な場面もよくきまっている。黒に黒が映える。見事な演技だったと思う。
歌も素晴らしく、良く透る声で、第2幕家臣たちを集める場面のほぼ這っているような音符の流れがこんなに明確なかたちで聴けたのは初めてだ。
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テオリンは巨大な声で他を圧倒。でも心にひびくものが今一つだ。ブリュンヒルデの心の動きと歌の表現がマッチしているとは必ずしも言えない。なりきって歌えばもっと微妙で陰影がある深い歌、気持ちと連動したニュアンスが聴けたのではないかと思うところもある。技を越えた声量ということなのだろうか。
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フランツは見た目が縫いぐるみ的なところがあり、このプロダクションとつながってしまうあたり、観る方としては今後この印象を打ち消していかなければならないが、それはそれとして、ヘルデンというよりもパープルでピュアでソフトな歌声はなにものにも変えがたい。
第3幕におけるジークフリート第2幕鳥の歌のシーンの再現。困難なヘルデン・テノールのコロラトゥーラ真似。3回繰り返されるが、何度聴いても素晴らしい。
聴きたくない人たちにまで無理に聴かせようとするのではなく、聴く意思を持った人たちに語りかける歌声だ。英雄テノールなのかどうか、それはジークフリートの第1幕、第3幕で拝聴している。それ以外に、このような響きにも魅了されてしまう。大変に美しいテノールでした。
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21日に続き今日もエッティンガーがカーテンコールにあらわれたところで少しブーイングがあったが、何の意味もない。なにがブーイングをするぐらいダメだったのだろう。前のブログにも書いたが、不在の演出家キース・ウォーナーに対する意志表示であればそれはわからなくもない。でもそれはなにか古いものにブーイングしているようにさえ聞こえてくる。このカミタソのプロダクションは2004年の再演であり、トウキョウリングは2001年に始まっていて、リメイクではなく単なる再演。まして、初演が好評だったので再演されているわけで、いまさらブーイングもない。初めて観た人がしていたのかもしれないが、去年のラインゴールドはそのような騒ぎもなくいたって盛り上がりクラップでしたのに。
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エッティンガーの棒は振り姿がバレンボイムに酷似。何度かコンサートを観て聴いて、このブログでもなんどか取り上げたのであまり言わないが、ベルリンでのお弟子さんであり、ある部分しょうがないところもある。師匠のバイロイトの実績が偉大すぎるのだ。バレンボイムがついにタクトをとったリングの初年1988年のバイロイト、ラインゴールドでは音が閉じた瞬間、大ブーイングの絶叫の嵐であった。あれは演出に対するもの。
エッティンガーは音楽の作りもバレンボイムと似ている。加速減速、伸縮自在、ためを長めにつくる。ひじの動きが独特であれがためをつくるコツではないかと個人的には思っている。また、強弱も容赦ない。つまるところ劇的な表現が好きで得意。
ワーグナーに関しては、微妙な表現ながら、数々頻出するライトモチーフ、変容したライトモチーフ、出てきたところで気がついているような個所もあるような気がする。気がするだけかも。
また、彼はトレーナーではない。バレンボイムのように優秀なオーケストラがいつでも与えられていて、そこがスタート地点。このようになるまでにはもう少し修行を積まないといけないと思うが、それでもこれだけ見事にワーグナーを振れれば、結局のところ、今回のように一番肥やしになっているのはこの棒ふり自身であり、あとで振り返ってみれば、三大歌劇場とバイロイトでワーグナーを振る時が来た際、トウキョウリングのような下地があったからという話にはなるのだろう。
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オーケストラは今一つ。ブラスは鍛えなおす必要がある。たとえトラでも。
指揮者がかなり駆り立てているので抑えきれない部分もあるとは思うが、今回のような大人数はいらないかもしれない。交代で吹くならわかる。バテるので、幕間、長休止、交代で。
最初から最後まで鳴らしまくりというのはどうかと思う。ピッチの具合もどうもよくなく、それでなくても力んでいてうるさいだけの局面が多々あり。大キャパのホールでもないのであれだけがなりたてるのもどうか。たまに舞台の声が聴こえなくなるぐらいうるさい。
逆にコントラバスの響きが深く。音によるスケール感が絶大。オーディオからは絶対に出せない豊かな響きが空間を包み込む。ワーグナーを聴く醍醐味。素晴らしい。
チェロはあまり前面に出ていないような気がする。ブラスに打ち消されているのかもしれない。ヴィオラ、ヴァイオリンの響きは静かな場面にこそふさわしい。まとまってからまる‘つた’のような響きのアンサンブルが欲しいが、振る方もやってる方もそんなことはあまり考えてないのかもしれない。
アンサンブルで言えばウィンド、木管は肝心なソロパートをはずせないし、慎重な中にもきわめて技術的に高度な響き、バランスが見事であったと思います。
全体としては、ホール、ピットのせいなのか、たとえば、ハープの響きは?あとで思い出すとあまり明瞭ではない。それぞれの楽器、アンサンブルとしての楽器が個体として主張するような響きがあまり聴こえてこない。ブラスにかき消されただけなのか、それとも配置のせいなのか、ホールのせいなのか、よくわからない。アンサンブルをもっと聴きたかったというのが正直なところ。
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今回のトウキョウリング、河童メソッドとしては◎です。
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは。冷静で緻密な批評で勉強になりました... (Shushi)
2010-03-30 22:08:03
こんばんは。冷静で緻密な批評で勉強になりました。トーキョーリングは演出的にも本当に良い思い出になりました。深読みすればするほどいろいろ考えさせられますね。バレンボイムのリングは未聴です。聴かないと、と思っています。
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shushiさま (河童メソッド)
2010-03-30 23:25:06
shushiさま
こんばんわ
コメントありがとうございます。拙文を読んでくださりありがとうございました。
今回も3回観ましたが、何度も感想を書いているうちに、なんといいますか、内田百閒は随筆の材料が無くなったところから本当の随筆が書ける、たしかこようにいったのを思い出してしまいました。もう書くこともないと思ってたのですが、書き出すとどんどん書けるんですね。面白いものです。
トウキョウリングは非常に楽しく観ることが出来ました。
バレンボイムについては、生リング3回観ました。ワルキューレだけですともっと観てます。結構はまりました。
そのリングの模様はまだアップしてませんが、聴いたコンサート観たオペラをブログの左にリンクしてますので、もしよろしければご覧くださいませ。

そろそろ、本のことがアップされる頃と思いShushiさまのブログも目がはなせません。
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 こんにちは、のんびりまったりとブログを更新し... (Pilgrim)
2010-05-16 12:22:03
 こんにちは、のんびりまったりとブログを更新している、「オペラの夜」です。
しかし、あまり書く事がないとか言いながら、これだけ書けるのも凄いですね。

 テオリンさんとフランツ君に付いては同じ意見ですが、
ホルンはあの遅いテンポで、良くやった方だと思います。
返信する
Pilgrimさま (河童メソッド)
2010-05-17 00:24:53
Pilgrimさま

コメントありがとうございます。ご無沙汰しておりました。フランツはやっぱりよかったですね。
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