バルシャイの棒によるショスタコ全集をようやく聴き終えた。
収録時間の長短はあるものの1番から順番に収められていて、何を聴いていいかわからないときこれを順番にとりあえず手にとると言った感じで聴き進められる。
と思っていたのだが、そんな生半可な姿勢で聴いてはいけないと有無を言わせない反省を促された内容でした。
そもそも何でこれを買ったかというと11枚組で価格破壊的に安かったからだと思う。Brilliantレーベルというのは、ちょっとあやしいと以前は思っていたし、バルシャイという棒振り自体ぱっとしないというか、日本人にはあまり受けないというか、昔ならたしかショスタコの交響曲ではない部分でLPがあったような気がするが、小曲を小者が振っていると言った勝手な印象しか残っていなかった。
Brilliantレーベルは何点か持っているが、今回のような束ものが多く、その束の作りが粗末でライナーノーツなども少しあやしかったりする。Scribendumと似てるなぁ。
まぁ、それでも全曲だし、みたいな。
11枚組で外箱付き、邪魔なのでプラケースは全部捨て、外箱は小物入れにしておいた。
そんな感じで聴きはじめたが、第2番第3番で打ちのめされた。
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ショスタコーヴィッチ 作曲 交響曲
第1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15番
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ルドルフ・バルシャイ 指揮
ケルン放送交響楽団、同合唱団
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第2番のサイレンは人によりでかかったり小さかったりだが、昔ロジェストヴェンスキー指揮ウィーン交響楽団によるサイレンはやたらとでかかったような気がする。
バルシャイは普通の棒なのだが、サイレンの後歌われる合唱の響きが素晴らしい。レーニン共感というよりも音楽への共感なんだろうと思う。そもそもこの曲自体、かなりあやしい響きの曲で、分解的に聴かせてくれるケルン放送交響楽団のデッドで埃っぽい音色も方向感としては悪くないし、同合唱団の響きもドライではあるが曲の本質をとらえた見事な響きと感ずる。この2番にいたってバルシャイのショスタコにぐっと引き寄せられた。前半のウルトラ・ポリフォニー27声部は自耳で聴くしかないけれど。。
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第3番も曲としては同じ方針。これも最後の合唱の慟哭がいい。第2番第3番は生では演奏される機会がほぼないが、森の歌とかいろいろと組み合わせれば一夜の合唱団を有効活用できると思うのだが。
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それで飛びますが、第12番ですが、これは4番などよりもずっと爆な曲なわけですが、ここらへん4番7番12番などになると結局生で聴かなければ本質がわからないような鳴りの曲なわけで、そんなこと言ったらショスタコは全部生で聴かないとわけがわからないというか、生で聴くとその、わけのわからなさ度、が増すだけなのだがそれでもいい。
バルシャイは穏やかではないけれど踏み外しはしない。曲自体録音の限界を試しているような曲ばかりなのでそのからみでいうと判断は難しいが、少なくともがなりたてるだけの棒では決してない。いい演奏だと思う。個人的にはこの3曲のうち一つ選べと言われたら、シュワちゃんのチチンプイプイの7番レニングラードか。
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第15番ですが、河童蔵の24種類の15番とつい比べてしまいますが、バルシャイの方向は一言で言うと、1番9番15番という流れであり、1番と9番で少しおどけた曲想がそのまま第15番での方針となっている。そういう意味では後ろ向きというか、少なくとも前を向いている解釈とはなかなか思えない。ムラヴィンスキーなども同じだと思う。
ここは、やっぱり、ザンデルリンクさんに出てもらうしかないでしょう。執拗なまでに演奏会で繰り返したタコ15、そして、マーラー10番全曲。あの熱意は異常としても、15番の先の音楽の広々とした視野を感じさせてくれるのはザンデルリンクの解釈であり、バルシャイではない。ウィリアム・テルから指環の動機まで、そして自作を内在させた、早い話、引用だらけの曲なのだが、なんだか、また新しいことが始まるんだよ、といったピアニッシモによる壮大なパーカッション音響が、この先の音楽歴史の空洞を示してくれているようでもあり、先の人たちはその空洞に響きを満たしていく義務があると感じる。
バルシャイの限界というか、方向性の違いというか、それに替わる魅力があるのか、いろいろとあるのだろうけれど、それはいったん横に置いてもこのBrilliant盤、非常に良いセットでした。