河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演-1-

2006-08-04 00:01:00 | 音楽

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ブルックナーの交響曲第9番のキャラガン版第4楽章付全曲の世界初演は、198418日に行われた。

Sun, Jan 8, 1984 at 3:00p.m.

Carnegie Hall

Mozart Violin Concerto No.5

Bruckner Symphony No.9

(completed finale by William Carragan)

Violin,Ida Levin

Moshe Atzmon,conductor

American Symphony Orchestra

198418()15

カーネギー・ホール

モーツアルト ヴァイオリン協奏曲第5

ブルックナー 交響曲第9

(ウィリアム・キャラガンによる第4楽章付全曲)

ヴァイオリン、イダ・レヴィン

モーシェ・アッツモン指揮

アメリカ交響楽団

前半のモーツアルトは当初のヴァイオリン協奏曲第3番から変更になっている。ソリストがCharles Tregerから変更になったためと思われる。

演奏の内容は別の日に書こうと思う。

この日の前後は、ザンデルリンクがニューヨーク・フィルとマーラーの交響曲第10番クック全曲版の6回公演の最中であった。

河童は15日にこの公演にもぐりこんで、未体験ゾーンのマーラーを楽しんでいた。ザンデルリンク マーラー10番 6連発

そして17日つまりブルックナーのキャラガン版の前の日も、このマーラーを再度楽しむためにゆっくりと席に座った。

のだが、今日はどうも隣のおじさんがチラチラと右左をみて話し相手を物色している。

隣のおじさん「エクスキューズ・ミー・サー。きょうのマーラーは10番の全曲版ということで興奮するね。」

河童「ヤー。でも、僕はおとといの初日も聴いたので今日は2回目だけど。」

隣「オー・グレイト。君は新しいもの好きだね。」

河童「ワゥゥ。別にそんなこと、あるかもしれない。」

隣「今日のマーラー10番もエキサイティングだが、ユノウ?実は明日ブルックナーの交響曲第9番のキャラガンが作った第4楽章付の全曲版の世界初演があるんだ。」

河童「アイノウ。だってチケットもってるもん。」

隣「リアリ?それはすごい。明日は3時からの公演だね。」

河童「サートゥンリー。」

隣「じゃ、今日のナイトキャップはほどほどにして、明日公演前の1時に52丁目の方にこないか。(といっておもむろにブローシュァーを取り出す。)

河童「ホヮット?日曜日の朝はおそいんだ。」

隣「明日1時からブルックナーの公演の前にフランク・プラッシュのブルックナーの講演があるらしい。」

河童「講演を聞いてから公演を聴くのか。(日本人にしかわからないジョークだな。)

隣「駄洒落はよくわからんが、とにかくこのブローシュァーにサインしておくから、それもってきて。それと名刺もあげとく。」

名刺には、アメリカ・ブルックナー協会西地区会長FRANK J.PLASH と書いてあった。

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ザンデルリンクのマーラー10番 河童VSヘナハン第3ラウンド

2006-08-03 00:57:58 | 音楽

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ザンデルリンクのマーラー10番の内容はどうだったのか。河童のようにそのサウンドをはじめて聴く人が圧倒的に多いわけで、演奏そのものよりも現実化したサウンドに対する喜びのほうが大きい。

河童のライバルである音楽評論家ヘナハンも同日の演奏を聴いたようだ。この二人の感想やいかに。6連発公演の初日である。

1984-01-05 Thur 8:00p.m. Aery Fisher Hall

Mahler Symphony No.10(by Deryck Cooke)

Kurt Sanderling, conductor

New York Philharmonic

198415()20

エィヴリー・フィッシャー・ホール

マーラー 交響曲第10(デリック・クック版)

クルト・ザンデルリンク 指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

河童の初生聴き感想。

年が明け、非常に貴重な生演奏体験。なんとも名状し難い雰囲気。

知っているのは第1楽章のみであり、他の4楽章については全く知らない。

ここで演奏されたクック版には何か「マーラー的」なものを感じ取れたと思う。

少なくとも、例えばベートーベンのこのような演奏・曲目があったとして、それよりは抵抗感なく受け入れられるのではないか。

たまに味付けが濃くなる時があり、特に第5楽章などは旋律自体が歌いすぎているような箇所が見受けられる。 9番を知る身としては、ちょっと受け入れがたいと言うか、第9番のあとにあのような節は作りえないと思ったりもする。

1楽章、構造自体は問題なし。しかし、メロディーがごつごつしていてつながりがよくないと思う。ブルックナー第9番からの引用があり、そのこと自体が違和感あり。

聴衆も今日は特に落ち着きがなく、それが感染したのかオーケストラもなんとなくそわそわしている。木管と金管の音程が微妙にずれ、ちょっとふやけるようなところがあり、またホルンなども難しそうであった。

2楽章のスケルツオは、第9番のスケルツオよりはまし。ここから未知の世界へ。

3楽章は普通。

4楽章と第5楽章の境目がよくわからなく聴いていて戸惑った。

あの強烈なバスドラム衝撃はどっちの楽章に属しているの?どんな意味を持っているんだろう。不思議な曲。

スケルツオが二つあるというのもわけがわからず、とにかく何がなんだかわからない。この曲はあさってもう一回聴く予定。もう少し真剣になって聴かなくては。

おわり

河童の感想はこんな感じ。前提が無いとこんなレベル。もう一回聴いたときの分析はこれよりも細かいが、ここでは省略。

では、相変わらず困難を極めるヘナハンの評は、というと。

New York Times 1984-1-6 Fri

By DONAL HENAHAN

ニューヨーク・タイムズ

198416()

ドナル・ヘナハン

もしあるとき、作曲家が自身の肩をつかむ冷たい手を感じたら、そして、死への試みについての不安を音楽にしたのなら、グスタフ・マーラーがその人であった。

マーラー自身がそうであった真のロマンティックのようなもの、を反映しているように思える最後の作品をかなり早くに予感し始めていた。しかし、彼の死の年1911年に未完成で残した交響曲第10番において明白にそのように見えるようなところはどこにもない。

スコアはただ単に、”O Lord ,why hast Thou forsaken me”といった絶望的なフレーズに満たされてはいるが、かなり力は弱まったが陶酔的な二つのスケルツオでさえ、音楽の雰囲気は緩むことは無い。

クルト・ザンデルリンク指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによる昨晩の演奏は、決して霊感をあたえ、高揚させるものではなかったが、重要な局面において、本質的に活気がなく孤独な性格が反映されている。過去にレニングラード・フィルの指揮者として、そしてごく最近ベルリン交響楽団の指揮者になったザンデルリンクは、自身のプログラムを5楽章70分で演奏した。

作品は荒涼としており不吉で孤独でなければならない、といった考えに基づいているのは疑いの余地がない。それはサウンドについても同じ考えであった。

10交響曲は、マーラーの苦悩したプシケに慣れさせられた人が、一晩、我慢して耐えるということが全てである。

スコアは1972年にあのイギリスの音楽学者デリック・クックによって拡大編集された有名な演奏版によっていた。

着想に対してはマーラーの未亡人アルマによって当初反対があった。1964年に初演された原典版はニューヨークで演奏されたが、その前にユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア・オーケストラが2回演奏している。

マーラー自身が部分的に完成させたスコアと草稿から、クックが完全版を書き上げるまでは、コンサート好きによって知られていた楽章は、最初のアダージョと自身がプルガトリオと呼んだ短い謎の楽章のみであった。これら二つの楽章が、マーラーが完成させた全てであったので、マーラーの交響曲第10番などというものはない、と多くの音楽家は当然のごとく反抗した。

たしかに議論すべきことはある。しかしクックがつなぎ合わせたハイブリット作品を聴くと、病的な魅力にとりつかれてしまうことを私は告白しなければならない。

作曲家は全然違うことをしたかったかもしれない、驚かせるようなことをしたかったのかもしれない、と聴き手が考える気持ちはいつもどこかに潜んでいるけれども、オーケストレーションはだいたいマーラーの音のように聴こえる。

初期の交響曲と比べてみても、ザンデルリンクの単刀直入でしばしば歩行者のような解釈には偽りはほとんどない、といった事実からいって、10番が真に活気があり独特であると、特に言えるわけではない。

大きな伸縮自在の拍をもった信頼できる音楽家、彼はフィルハーモニックから読みの良い音符を引き出した。しかし、彼らの間、彼らのもとに横たわっているものはなにか、ということにはヒントらしきものはあまりなかった。

少なくとも、最終楽章には残酷な種類のエネルギーがあった。マーラーが、第3番や第9番のゆっくりした終楽章という方法で、少しも諦めたような哀愁を帯びるように試みたことはなかったという冷酷なさである。バスドラムの10回の衝撃的な爆発によって区切られることによって、ベートーベンの5番の運命が扉をたたくといったことを暗示することはなかった。たとえあったとしても、打撃の衝撃とともに戸を通ってくる死、であり、おだてて丸め込まれるとか否定するといったことではない。虚勢をはることはなかったし、誤った推論もなかった。ただ恐れることは絶望と空虚。最終的にこの演奏はそのイマジネーションをつかんだ。

未完成で混合された曲の著作者の歴史を与えられた注目すべき鮮やかさと慇懃さの演奏を誰も予測・期待することは出来なかった。オーケストラ・セクションは、たいてい、金管が弦と木管を圧倒しバランスを崩していた。ザンデルリンクはそのような細かいことや、みんなが後期マーラーに期待するような超自然的絶頂感の達成といったことはあまり考えていないようにみえた。オーケストラによって正確に演奏された巨大でなじみのない作品を自分のものにするには、最初の演奏のときでさえ十分な達成感がなければならない。

おわり

ヘナハンは自分でも何を言いたいのか、最初から自己陶酔、極めつけの単語、熟語の連発で、あらぬ方向に行ったりもしている。

ヘナハンが言うには、曲はいいが指揮と演奏がいまひとつであった、ということらしい。

マーラー10番の6回公演の初日の演奏であり、オーケストラも十分こなれていなかったのかも知れない。オペラなどでは良くある。最初の演奏より2回目、3回目の方がのりが良くなり、千秋楽では絶好調などということは頻繁にある。ヘナハンも残り5回のうち何回かは足を運んだことであろう。

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ザンデルリンク マーラー10番 6連発

2006-08-01 00:22:06 | 音楽

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ラトルに負けず劣らず10番が好きな指揮者がいた。

ザンデルリンクである。トーマスではなく。クルト。

彼はこの曲をベルリン交響楽団と1979年にレコーディングしている。

筋金入りの生え抜きだ。

ザンデルリンクがニューヨーク・フィルに客演したとき、この曲を6回振った。

よほど好きなんだろうが、ザンデルリンクの場合、ショスタコーヴィッチの交響曲第15番も2回いれている。クリーヴランドとの演奏は貴重だ。

このように未体験ゾーン的な曲ではあるが、極端にモダンすぎない曲は彼の好みのような気がする。ザンデルリンクのマーラー10番は、河童も未体験ゾーンで2回聴いた。

今まで聴いたことがない音に接することが出来る幸せ。

今日のところはヘナハンとの勝負は避けて次回にまわす。

ところで、この時期、つまりラトルのニューヨーク・デビューの1年前にマーラーが続いたことがあった。

1月近辺のマーラーの演奏だけピックアップしてみた。

ニューヨーク・フィルの1983-1984シーズン定期公演。

●は河童潜入公演

1-05木 第10(クック版)ザンデルリンク●

1-06金 第10(クック版)ザンデルリンク

1-07土 第10(クック版)ザンデルリンク●

1-08 ※ ●

1-10火 第10(クック版)ザンデルリンク

1-12木 第2番 バーンスタイン

1-13金 第2番 バーンスタイン

1-14土 第2番 バーンスタイン

1-17火 第2番 バーンスタイン●

1-20金 第10(クック版)ザンデルリンク

1-24火 第10(クック版)ザンデルリンク

2-02木 大地の歌 メータ

2-03金 大地の歌 メータ

2-04土 大地の歌 メータ●

2-07火 大地の歌 メータ

マーラーイヴェントがあったわけでもなかったと思うが、かなりエキサイティングなプログラミングだ。

ところで、18()の※は、こんなプログラム。

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第5

ブルックナー 交響曲第9

(4楽章キャラガン版付 世界初演)

モーシェ・アッツモン指揮アメリカ交響楽団

ということで、マーラーの10番全曲版とブルックナーの9番の全曲版を偶然、二日の間に聴いた。記憶がふやけ気味だがこのあと皿力で思い出してみることにする。

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