この劇は日本でも行われました。
貼り付け写真は1995年ロンドンの当初評です。
興味のある方はクリックして拡大して読んでくださいませ。
(1995年10月12日(木)朝日新聞夕刊)
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(動画削除済み)
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演奏後のゲッペルスの夢見るピュアな目を見ていると、音楽と政治は、一人の個人誰にでも宿る宿命的な二面性と思えてくる。フルトヴェングラーの煮え切らない握手もいたしかたない。音楽家は音楽家の優位独立性を主張し、政治家は自国音楽の優位性を確保する実力行使をする。音楽家は音楽の優位性表現のためにはプレーヤーを選ばない。政治家は粛清後から始めようとする。河童がドクター・フルトヴェングラーと同じ立場にあったとしたら、やはり煮え切らない河童になっていたであろう。ベートーヴェンの自国を捨ててベートーヴェンの演奏は出来ない。祖国を捨てると言うことは自己否定ということになると感じたはずだ。