2017年2月18日(土) 2:00-4:50pm 東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレゼンツ
プッチーニ 作曲
笈田ヨシ プロダクション
マダム・バタフライ
キャスト(in order of appearance)
1.ゴロー、晴昌彦(Br)
2.ピンカートン、ロレンツォ・デカーロ(T)
3.スズキ、鳥木弥生(Ms)
4.シャープレス、ピーター・サヴィッジ(Br)
5.蝶々夫人、小川里美(S)
6.ボンゾ、清水那由太(Bs)
7.ヤマドリ、牧川修一(T)
8.子、松村あゆみ
9.ダンサー、松本響子
10.ケイト、サラ・マクドナルド
他
合唱、東京音楽大学
ミヒャエル・バルケ 指揮 読売日本交響楽団
(duration)
ActⅠ 47′
Int
ActⅡ 46′
ActⅢ 32′
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1幕冒頭、ゴローがアメリカ国旗を持って登場、終幕大詰め蝶々さん自刃直前、彼女は部屋に飾ってある国旗を抜き床に置き、その上を歩く。白い光が刀に向かう彼女の姿に当たり、光の中に消えていく。自刃が見えれば1幕冒頭と同じ、元の木阿弥ということなのだろう。
冒頭と大詰めのこの対比が外枠フレームだとすれば、2幕蝶々さんとスズキの二重唱で桜の花が飛び、舞う。そこに二人の黒子が現れて黒い花びらをまく。3幕でピンカートンがアリア、さらば愛の巣、散らばっている黒い花びらを拾い、絶唱。といったあたりが内枠フレームのひとつということだろう。ともに印象的なシーン。こういったことが連続する。
さりげない動きの中に籠めた深い意味合い、色々と考えるところのあった舞台でした。
このホールはオペラにはまるでむいていない。平土間に構えたオケ、ステージに簡単なセッティング。緞帳はないし、ホールオペラにしては粗雑な空間が広がる。音響はちぐはぐで良いコンディションとはいえない。それやこれやをしまいには感じさせないほど秀逸な演出でした。
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ステージには数枚のふすまが最初は衝立のように立っている。これを一枚ずつ動かしてシーンを作り上げていく。
ステージ奥には紗幕をおろし、さらに奥を一段高くし、そこでは陰の動きとでも呼べばいいのだろうか、そういった動きが見え隠れする。ここでの動きが味のある濃いもので、効果抜群。練られた演出。
紗幕の奥、一段高くした舞台、第2幕での人の動きが非常に印象的。ピンカートンも現れますね。それから第3幕最終シーンで同じくそこに現れるのは父だろうか。遺品の刀に向かう蝶々さん。
第1幕はめでたい結婚式の場があり大勢の人たちが出てくるのだが、持ち物、いで立ち、化粧、装飾具等々、どうも、中国風味満載。違和感あるものだが、意識されたものかどうかわからない。全体的にカラフル。
この幕で印象的なのは蝶々さんの白い着物姿の足の装い。最初は赤い足袋だろうと思ったのだが、ピンカートンとの絡み合いで、どうも、赤いタイツのようだった。この色彩感覚。総じて、白、赤、黒、この3色がくっきりと目立つ演出ですね。
次の2幕では、ある晴れた日に、を歌い終えた蝶々さんはステージ後ろ向きに倒れるように伏す。森岡さんが書いたプログラム・ノートは実に興味深いもので、例えばクリストフ・ネルの2001年のプロダクションでは蝶々さんはもはや正気ではないという設定などもあると引き合いに出したりしている。こういったことがインプットされながら観る今日のオペラ、ある晴れた日に、を歌い終えて後ろ向きにくずおれるその姿は、悲しさとあきらめを心のうちに秘めた正しく正気の蝶々さんなのだろうと思わずにはいられない。
このプログラム・ノートには演出のことを色々書いてあるが、このオペラの要は、ピンカートンの背後にいる勝ち組、蝶々さんの背後にいる負け組、戦争の勝ち負け、貧富の差、そういったこのオペラに内在している多様な問題意識と演出の広がりに言及していて興味深いもの。
また、演出の笈田さんの文章が載っている。蝶々さんと僕の世代、という見出しの小文だが、まぁ、アメリカに負けた日本の原風景、最後の1文は長崎つながりで被爆の話に強引とも言える弁で終わっている。唐突感のある文だけれども、森岡さんのノート、昨今の演出の多様性、広がり、問題意識等々を一緒に読めば、その唐突感は消えていく。演出の意図が見えてくる。
照明をグッとおとし、合唱が中に動きハミングコーラス。綿々と進むプッチーニですけれどもここはものすごく短く感じた。ここらへんまでくると眼にワイパーが必要になってくる聴衆もいるはずだ。
2幕からポーズを置かず終幕へ。ここでダンサーが踊る。とってつけた感がまるで無い。やる人がやれば、当たり前のようにごく自然、こんなにきまるものなんだとただ驚くしかない。
ピンカートンはシャープレスにお金を渡す。アメリカの良心(と思おう!)シャープレスはそれを受け取り一旦ポケットに。そして蝶々さんに渡す。このストーリーの流れで蝶々さんの愛の気持ちが、3幕まで連続してくると、もはやお金は何の価値も無い。というよりも無力(むりき)なものなのだと言わずともわかる。投げ捨てる蝶々さん。
この演出ではケイトさんと蝶々さんの直接対話がある。1904年ブレシア再演時に残っていて1906年パリ版では消えた対話を復刻させている。このため双方のシチュエーションに変化が生じ、お金での解決の示唆による屈辱は絶望へと。プログラム・ノートのお話は興味尽きない。
そして大詰め、結末は最初に書いた通り。
演出家の思いはさりげない中に多数の動きで籠められており、観るほうはこんな感じで、ずれているかもしれないし、多くを見逃しているかもしれない。でも、伝わってくるものが大きかった。手応えありました。手応えが感情に作用し思いが伝播すれば感動となる。いい舞台でしたね。
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オーケストラの位置のせいか音がデカい。反響はバシャっと感があり聴きやすいものではない。ものともしない小川さん、鳥木さんの清唱はお見事というほかないが、他の男連中の歌は総じて前に出てこず、アンバランス。オペラ舞台ではないので無駄な空間が多く響きが拡散し、このホールは征服しなくていいので次回はもう少し設備のある別のところで上演して欲しいものだ。とりあえずそれは横に置いて、
指揮のバルケはプッチーニ節をよく鳴らしてくれた。耽溺しない泣き節、歌手の伴奏時の控え目ながらポイントをはずさない棒で締める。主役がオケになるところでは、オペラ特有の空間を漂うようなメロディーラインの響きが素晴らしい。オペラ振りまくっている人の棒と実感。
低音が堪える蝶々さんながら出ていました。リリックなソプラノはドラマティックにいざとなれば向かう。やや細めの声のラインが微妙にバランスを保ちながら進んでいく感じ。小川さんはスタイリッシュで動きがよくて映える。しなる演技、シャープな動き、それぞれの状況をうまく表現。そして衣装がジャストマッチする蝶々さん。スバラシイ。
スズキの鳥木さんは今回は清楚な役柄を、うまくきめていました。耐えるのはタイトルロールだけではないあたり動きでも表現。二重唱もさえました。見事なバランスでした。
ピンカートンのデカーロは巨体で、リリックから身体そのものでプッシュ、スピントするという感じ。強烈すぎるといったほどのものではない。ホールのせいかもしれない。声方向が一点突き刺し型ではないような気がしますので、このバシャ感満載の小屋では力量が十分に出たとは言えない。
アメリカの良心シャープレスの仕草動きはお辞儀等々日本人的なところがあり妙な違和感が無くて、役柄というよりも日本にうまく対応している領事そのものと言った感じで、キャラクターのきまり具合はこの上演、男連中の中では一番よい。歌自体もものすごく説得力のあるものでロールになりきっていてお見事。
脇はいまひとつ。日本人なのに違和感のある動作が頻発。大きく動けばいいというものでもない。キャラクターがきまりません。
コーラスは、ハミングコーラスのところでは照明を落としてたくさん出てきますが、この方たちが他のシーンでも出ているのかどうかわかりません。いずれにしてもコーラスには芯が欲しい。
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万全なコンディションではない上演であったかと思いますが、秀逸な演出はそういったことを忘れさせてくれた。
それから、ホールのところでたくさんチラシ配っていますね。他の公演のちらし、もちろん情報としては大事なものだが、始まる前に一生懸命見るのではなく、ここは一旦、うちに持って帰ってゆっくり見てほしい。始まる前に読むべきはプログラム・ノートです。
おわり