河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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663-マーラー10番 6連発クルト・ザンデルリンクNYP1984.1.7

2008-08-31 17:59:56 | インポート

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ザンデルリンクがニューヨーク・フィルハーモニックを相手にマーラーの10番を6回振ったその初日の模様は前回前々回書いた。
6回もやるんだから最低2回は聴くもんだ。なにしろはじめて生で聴く10番全曲でもあることだし。
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1984年1月7日(土)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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マーラー/交響曲第10番 (デリック・クック版)
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クルト・ザンデルリンク指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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WQXR1984.6.17 3:05pm放送予定

はじめて生聴きしたときは、曖昧模糊でつかみどころのない曲のように感じたのだが、2回目ともなれば聴くほうとしても気合だけではないようだった。


おとといに続きまた聴いてしまった。
今日は自分でも納得いくほどかなり真剣に聴いた。
全精力をつぎ込んだような気がする。
スコアを持ってなくてよくわからないが、あの強烈なティンパニから第5楽章が始まるのであり、すぐに続いてチューバのソロとなり、独特なもの、やっぱり「何かマーラー的なもの」を感じ取ることが出来る。
また、全ての楽章のメロディーはなんらかの意味で全て第1楽章第1主題につながっているように思えるようなところがあり、特に第5楽章ではそのままの形で再帰するところがある。このようなことをごく自然に感じ取れると言うこと自体Versionのよさを示していると思う。
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スケルツオが二つあるというのは聴いたことがないが、この曲においてはバランスがよく取れていると思う。
圧倒的な重量感をもっているのは両側の第1、5楽章であり、その内側にまた対になるように第2、4楽章というスケルツオがあり、そして核となる第3楽章は全く軽くさわやかに、とは言いにくいが、比較的心地よい音楽となっている。これを聴くとすぐに第3番のシンフォニーを思い出すはずである。
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 第2楽章のスケルツオはかなり組み立てがわかりやすく、例えば第1番のシンフォニーのスケルツオを聴くのとなんらかわりがない。
が、第1楽章とのあまりの違いに少なからず驚いてしまった。これはやっぱり本人が作ったものではない、という先入観があるからなのかもしれない。しかしここでも、第1楽章の主要主題を想起させるには十分のものをもっているので、身を浸すことはできる。
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第3楽章は比較的軽い曲であり、この曲の場合、アンダンテ楽章が途中にないのが幸いしている。
両端楽章以外にここらへんの第3楽章がまた、もたれるような曲だとさすがに疲れてしまうことだろう。
これはきいていて疲れない曲でありほっとする。但し、VERSIONされたこの楽章を聴くと何かあまりにも若い番号のシンフォニーに戻ってしまったような錯覚に襲われるときがある。晩年のマーラーが果たしてこのようにこの楽章を作っただろうか?
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 第4楽章もスケルツオである。これはかなり短い曲だと思うのだが、形式がなんだかよくわからず曖昧模糊としている。音楽もふわふわと浮くようであり、これはやっぱり指示通りTempo di Valse なのであろう。
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第5楽章は、第1楽章に匹敵する圧倒的な重量感をもつ楽章である。その長さといい、また奇怪なものが存在、という意味においても重量感がある。
まず、あの奇怪なティンパニの炸裂音。ここで思い出したが、ティンパニと言うのは私の間違いで、これはバスドラムです。
このバスドラムの一撃がこの楽章を通して現れる。
最初の一撃のあと、チューバが主題を地の底から吹奏する。
このあと、この雰囲気のまま小康状態を保つが、ここらへんの雰囲気は全くショスタコーヴィッチ風といえる。それもショスタコーヴィッチの後期のスタイル。
時代的に言うとショスタコーヴィッチの方がマーラー的というべきなのだろうが、抵抗感なくショスタコーヴィッチ風といえるのは、やっぱりVersionの意識があるからなのだろうか。
そしてその後、展開していき得意の歌が始まるのであるが、ちょっとメロディーが歌いすぎで背中がもぞかゆくなる。なんとなく苦笑いしたくなる。それに例えば第9番に比べても、縦の線がぶ厚すぎるのではないか。つまり一緒に演奏する楽器の数、種類が多すぎる。後期のマーラーはこうではなかったように思う。旋律がもっと単細胞的であったように思う。分散した旋律を奏でていたはずである。
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それにしても自分としてはこの曲自体、マーラー自身が作曲、完成させた第1楽章からして、ちょっと違うところがあるなぁ、と常々考えていたわけであり、その考えから推し量っていくと全曲がなんとなく違和感があってもよいような気がしないでもない。
第1楽章は全体に音色がくすんでいて、霞がかったような曲になっている。全く弦楽器主体の音楽なのだが、ときに管が全く弦に重なるように奏されるので、また、楽器配分のバランスが絶妙であるのか、実に霞がかった音色バランスを感じることが出来る。
第1楽章については、レコード等で比較的よく聴くことが出来るわけであるから、何も焦る必要はない。
大曲においてはバランスが大事だと思うが、最初に書いたように曲自体のバランスはよくとれていると思うし飽きさせない。生演奏に接することが出来るということ自体、幸せと思わなければならない。因みにザンデルリンクはこの曲を以下の通り振る。
1/5,1/6,1/7,1/10,1/20,1/24
これだけやれば指揮者もオーケストラも聴衆もマーラーも、そしてクックも満足だろう。
おわり

と言った感じの感想だった。駄文であるが、ここまで熱を込めて聴くことは今はもう出来ない。
今は多数のバージョンをCDで聴くことができる。コンサート自体は多くはないと思うがそれなりにやりたがる指揮者もいる。
ザンデルリンクはこのような曲とかショスタコーヴィッチの15番など、アウトレージャスではあるが、わりと振りやすいものが好きな指揮者だったような気がする。ザンデルリンクは曲に対する共感がものすごく、熱の入れようが手に取るようにわかる棒。
指揮者はポーディアムに上がると言葉を発することはない。練習の時の声がすべて。でも、そこで出来るつながり、形成される音楽観の理解と共有、それがなければ本番での発展的発露は見いだせない。ザンデルリンクはそのようなことを包含していた棒振りであり、比較的あっさりではあるが本番では楽員のやる気度を高め、そして聴衆にもしたいことがよく伝わってくる棒であった。昔の評論家ならアルチザンなどと陳腐な言葉で音楽をさらに埋没させたかもしれない。もっと回数も中身もよく聴けと音楽評論家連中にはいいたくなる。
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それはそれとして、ザンデルリンクの清らかな心を聴くならこれ。
ショスタコーヴィチ/交響曲第15番
クリーヴランド管弦楽団1991.3.17-18
ERATO 2292-45815-2
おわり

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