河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

658- テンシュテット・メトデビュー フィデリオ メト1983.12.21

2008-08-22 00:01:14 | オペラ






日本では1980年少し前あたりから、急に盛り上がってきた感のある指揮者であったが、アメリカでは1970年中盤あたり既に頻繁にオーケストラ客演を繰り返しはじめていた。
でも、メトのデビューはこのフィデリオの一連の公演であった。


1983年12月21日(水) 8:00pm メトロポリタン・オペラハウス

ベートーヴェン フィデリオ (当演目メト143回目)

指揮 クラウス・テンシュテット
演出 オットー・シェンク

Characters in order of vocal appearance
ヤッキーノ、マイケル・ベスト
マルチェリーナ、ロバータ・ピータース
ロッコ、マッティ・サルミネン
レオノーレ、エヴァ・マルトン
ドン・ピッツァーロ、フランツ・マツーラ
囚人1、アンソニー・ラチューラ
囚人2、ジェイムズ・コートニー
フロレスタン、ジョン・ヴィッカース
ドン・フェルナンド、アーゲ・ホーグランド


テンシュテットはメトデビューに際し、このフィデリオを、
1983年12月14、17(土)、21、27、31(土)、1984年1月4、7(土)
以上の7回振った。
土曜日の公演が多いのは、フィデリオは比較的短いオペラであるため、マチネーあるいは同日夜の公演で負担が少ないからであろう。
31日の大晦日公演は夜であったが、これまたご苦労さんなことです。
それで当時の感想は?


まず、驚いたことに今日の席(ドレスサークルの最後尾)における音の違い。
オーケストラ(土間)で聴く音とかなり異なっている。
バルコニー席が上に覆いかぶさっているせいで音はやせて聴こえ、特にヴァイオリンの音はひどく細い。また、ブラスセクションは音がむき出しになって聴こえ、平土間で聴くような包み込む感じがない。
ところが、ステージの上の歌手の声は全くよくとおり、このバランスはなんとなく不自然である。
やっぱりどこのホールでもこのように問題のある場所は存在するものなのですね。

さて、一か月ほど前にニューヨーク・フィルハーモニックを振ったテンシュテットの再登場である。こうやって上の席からオケピットとステージを一緒に見ていると、オペラにおける指揮者の仕事というのは大変だなあとあらためて感心してしまう。
テンシュテットは場慣れしているはずだから全くの余裕の指揮と言える。メト初登場だとはとても思えない。

それで聴きこんでいるはずのフィデリオ。
しかし、これはオペラなのだろうか?
今まで観てきたオペラとはかなり異質なものがある。4重唱やオーケストラのかけあいでさえシンフォニックであり、まして合唱になると宗教音楽を聴いているような錯覚に陥ってしまう。

テンシュテットは余裕の棒であり、それはフィデリオ序曲のゆっくりした出だしから既に強く感じられ、緊張感がいっぱいで弛緩したところは一音たりとてない。
科白のあとの音楽が自然に湧き出てくる様は、歌い手の呼吸と一致している。これはオペラの醍醐味であり、また、難しさでもあるはずだ。
いただけないのは聴衆の拍手の回数が多すぎることである。音楽が中断してしまう。ベートーヴェンはこのようには曲は作っていないのだよ。
レオノーレ第3番は、その最初の打撃音とともに第2幕第1場のカーテンが静かに閉じられ、あと暗闇の中でひたすら演奏され続ける。こうやってオペラ全体の流れの中にこのレオノーレ第3番を考えてみると、この序曲は全く異様な長さである。バランス的にはそのあとに続く第2場と同じ程の長さと力をもっている。やっぱりこれはオペラと言っても本当にベートーヴェンのみ創作可能な構造である。今まで聴いたオペラと視覚、音楽がまるで異なる。
このレオノーレ第3番が終わった後、オーケストラ、指揮者、聴衆ともに演奏会自体が終わったような雰囲気となり、オーケストラは2回起立し、聴衆のブラボーは終わりがないような感興となる。
いずれにしろ、この後には勝利、自由の音楽が鳴り響くわけであるから、この場面におけるホールが一体となったざわめきに不自然さは感じない。
ただ、この第2幕第2場のステージの上での動きは演出過多で、ちょっとやりすぎの感がなくもない。なにしろシェンクだからね。ベートーヴェンが観たらきっと苦笑いするに違いない。

ベートーヴェンの音楽には、いつだって新しい発見がある。
やっぱりこのベートーヴェンの音楽のように響く音が好きだ。
そしてまた、その構造の強さを感じさせないわけにはいかないほど張りつめた音楽。
音楽は全てベートーヴェンにはじまりそこに収束すべきである。
構造美と音そのものの美しさが一体となった音楽が必ずそこに鳴っている。
もっと耳を傾けなければならない。そして少しでも多くのものを聴こうと努力しなければならない。
美しさを求める努力なくしてベートーヴェンの音楽と共同体となることはできない。
これは演奏家のみにとどまらず、聴衆としての私たちについても全く同じことが言える。
ベートーヴェンの音楽には常になにかを乗り越えてきたような美しさが迫力を伴って存在する。
いつも、何かにとりつかれたような美しさがある。
全ての音楽がこのように迫力のある美しさをそなえていたら、いつでもそこに行くことができる。
今、また音楽の世界がはじまる。
テンシュテットの、非常に強いベートーヴェン像だった。
おわり


こんな感じで、いつもどおり語法に問題のある日本語がならんでいる。
でも、なんとなくその状況が自分ながらよくわかる。
とくに印象的だったのは、まっ暗闇のなか15分続くレオノーレ第3番。
視覚ゼロ、聴覚には音楽だけが注ぎ込まれる、このシチュエーションをイメージしてみてください。
頭の中にとにかくいろんなことが浮かんでくる。この音楽のことだけではなく、どのようにしてこの曲を作ったのか、といったあたりから、となりの人は何を考えているのだろうか、といったあたりまで、いろいろな方向に頭が廻る。非常にユニークな体験であった。

日本では、名が知られた頃は久しぶりに出てきたドイツ本格派指揮者といった感じであったが、そのころ既に彼はヨーロッパのみにとどまらず、アメリカのビック・オーケストラに頻繁に客演を繰り返していた超人気指揮者であったのだ。
このようなことをいまあらためて考えると、当時いかに井の中の蛙であったかということがよく認識できる。レコ芸等の限られた情報が全てであり、また、一部評論家の誤った発言、局部が肥大化した内容、このようなことをいとも簡単に受け入れていたわけだ。それが当時の音楽シーンだと思ったりしていたわけだ。
昔のことを全部否定するわけではない。
しかし、美化しすぎが遠目には今はじめて嘘のように見えたりする。
音楽を日常で感じることが大事。
サブスクリプション・コンサートに真の音楽がある。
それを愛する人が本当に音楽の好きな人。
自分の観た、聴いた演奏が全てめったにない名演奏であった、などということはあまりない。ウィーン国立歌劇場日本公演に6万円はらったらその公演はなにがなんでも筆舌に尽くし難い名演となるわけだが、そんなことありえない。
6万円のダ演にはやりきれないものがあるだろう。
初台ならいい席で3回聴ける。
オペラは初台のオペラパレスができてようやく日常となった。
ということで、どこに話を落とせば良いのかわからなくなってきた。
ルーチンワークの日常の演奏を愛してこそ、本当の音楽ラヴァー。
そこから見えるものがある。
おわり

 




 

 

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