書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

矢島祐利 『アラビア科学の話』

2011年01月06日 | 自然科学
 同じ著者の『アラビア科学史序説』(岩波書店 1977年3月)と併せて読む。
 ハワード・R. ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』でも感じたことだが、物理学といいながら、そのなかに力学(動力学)分野の業績が皆無にひとしい。これはアラビア科学(イスラム科学)における力学的発想の不在を意味するか。書中の記述を見る限り、原子論に関する関心もほぼ皆無のようである(注)。

 注。イスラム哲学には原子論は真空の概念ともども存在していた(しかし原子は神によって造られたということになっていた。このことと真空の存在を認めることとの論理的整合性がわからないがそれはさておく)。イスラムの科学者は哲学者とは思想や教養の根底が違っていたのかも知れない。

(岩波書店 1965年2月第1刷 1991年10月第5刷)

ハワード・R. ターナー著 久保儀明訳 『図説 科学で読むイスラム文化』

2011年01月06日 | 自然科学
 中世後期〔15-16世紀〕のイスラム文化の凋落は、知識に対するヘレニズム的なアプローチが、歴史の変遷とともに、科学を、イスラムの天啓に規定されている救済への道筋を照らす実用的な「道具」として限定するイスラム的な観念に席を譲っていくプロセスに対応していると考えることもできる。 (「13 中世後期のイスラム」本書245頁)

 中世ヨーロッパは、教会がふりかざす教義と、知性の解放を求める一種の人道主義的、個人主義的な要求の間の絶え間のないせめぎ合いによって支配されていた。だが、一つの決定的な条件が中世以降の西洋の文明の形成に影響力を及ぼすことによって、西洋の文明は、イスラム文明とは異なった道をたどることになる。西洋では教会が争いにおける主導権を失ってしまったのだ。だが、イスラム世界においては、正統派の宗教的権威がその支配力をさらに強化していった。 (「15 新たな西洋」本書263頁)

 おなじ宗教(一神教、しかも同じ神と経典を共有するいわば兄弟関係)でありながら、イスラム教では、なぜ正統派の「宗教的権威がその支配力をさらに強化していった」のか、それが西洋(キリスト教)では教会が「主導権を失ってしまった」のか。それに答えなければ歴史研究にならないだろう。コペルニクスより先に地動説がイスラム世界にあった(15世紀。本書138-140頁参照)というのであれば、なおさらであろう。
 この本、「著者略歴」もなければ「訳者あとがき」でも著者についてまったく言及がない。仕方がないので自分で調べてみた。
 ここに原書の紹介ととも著者についての簡単な紹介があった(以下引用)。

  Howard R. Turner is a documentary and educational film and television writer who served as Curator for Science for the major traveling exhibition "The Heritage of Islam, 1982-1983."

 どうもテレビマン(ライター)であって、専門の研究者ではないらしい。それなら仕方がないといえばいえないこともないが、しかしおなじテレビマンでも『河殤』の蘇暁康(彼も専門家ではなく映像作家だった)は問いを設け、設けるだけでなく、答えを出した。結局は個人の資質に帰せられるべき問題だろう。

(青土社 2001年1月)

伊東俊太郎/広重徹/村上陽一郎 『〔改訂新版〕思想史のなかの科学』

2011年01月06日 | 自然科学
 『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか』(文藝春秋)所収の拙論(注)執筆時に読んでいなかった本。あの小論は、この数年間ずっと考えてきたことをあらためて自分なりに調べ直して纏めたものだが、この人類の科学通史を読んでみて、科学・科学史の専門家から見てもそうそう変なことは言っていないようなので安心した。

 注。「中国ではなぜ“科学的&民主的”思考が根付かないのか―日中の“理”概念の違いから見る」(同書207-240頁)

 『九章算術』はギリシアのユークリッドの『原論』に比すべき中国の最古の数学書であるが、その内容は甚だ異なり、公理から出発する幾何学的演繹体系ではなく、面積や体積の計算と、算術・代数が中心である。ここですでに負数の計算が示されており、ギリシアに比して論証という面では劣っているが、計算技術の面ではこれをしのいでいる。 (伊東俊太郎「I 『科学革命』以前の科学」本書75頁)

 一般に中国の自然思想は、一個の自然学として独立せず、つねにそれが人間の倫理と結び付いていたところに特色がある。自然と人間とが分離されず、自然の法則が同時に人倫の理法であり、この逆も真であった。 (伊東俊太郎「I 『科学革命』以前の科学」本書76頁)

 個々の人間が社会の究極的な単位であって、この単位のもつ固有の権利に対しては、国家社会は干渉と制限とを極小にとどめるべきである、というロックの政治哲学は、政治理念としてはアメリカの独立宣言、フランス革命を直接予示するものであったが、その発想の根底には、人間に対する「原子論」的な把握様式があったことを忘れてはならない。 (村上陽一郎「IV 原子論の系譜」本書154頁)

 マルクス以後のマルクス主義では、政治・経済・社会現象の「科学的」把握と唯物論的観点とを一つの思想体系にまとめ上げる努力が重ねられ、善くも悪くも科学と哲学とが非常に強く結びつくという特徴がのこされたが、一般に哲学は科学から離れてしまったのである。 (村上陽一郎「XII 自然科学を中心とする学問の再編」本書256頁)

 ただ、“一九世紀の末から今〔二十〕世紀の初めにかけてまず物理学で始まった巨大な革命”により、物理学では“量子論の展開のなかでは、従来の因果律が危うく”なり、“相対論のそれでは、時間・空間という、およそ人間にとってもっとも基本的な概念枠についてのそれまでの考え方に大きな動揺が起こった”。また数学の分野においても、“公理主義思想”が“数学的「真理」とは何かという根本問題に波乱を投じるとともに、集合論を土台にして、哲学の一部としての論理学に強烈な影響を与えた”(本書256-257頁、村上陽一郎執筆)という部分には、筆が及んでいない。もっとも結論にはいささかも影響しないが。これは、数学については別として、ひと言でいえば物理法則の階層性の問題であるからだ。

(平凡社版 2002年4月)

「日本の本当の意図 (2)」 から

2011年01月06日 | 抜き書き
▲「人民網日本語版」13:39 Jan 06 2011、編集NA。(部分)
 〈http://j1.peopledaily.com.cn/94474/7252320.html

 だが、このような隠し立てをするやり方によって、人々はかえって、韓国との軍事協力推進を望む日本の本当の意図について疑念を募らせているのである。
 
 “人々”とは具体的に誰のことを指すのか、具体的に名を挙げてみたらどうだろう。もっと論旨の力が強くなるし、なによりわかりやすくなる。それは国境のこちら側の話かそちら側の話か。

「中国の学者 『沖縄の主権は中国に属する』と叫び始めている」 から

2011年01月06日 | 抜き書き
▲「NEWSポストセブン」2010.10.03 17:00、「週刊ポスト2010年10月8日号」の注記。(部分)
 〈http://www.news-postseven.com/archives/20101003_2276.html

 昨年〔2009年〕12月には歴史研究者らがシンポジウムの席で「琉球処分にも沖縄返還にも国際法上の根拠はない」との主張を展開、中国社会科学院日本研究所の学者・呉懐中氏は「沖縄の主権は中国に属する」とまで断言している(新華社8月20日付)。

 この段落の前に名の出る唐淳風氏のことは以前から知っているし、件の9月19日『環球時報』の発言も直に読んだ。小泉内閣が尖閣問題で戦争を仕掛けてくると言った人であり、毒ギョーザ事件は日本側の自作自演だと言った人である。
 しかしこの呉懐中氏については初めて聞く名だ。迂闊迂闊。この人の言動にもこれから注意しよう。

『桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~』第21話(最終回)「寅さんは永遠に不滅ですSP」 から

2011年01月06日 | 音楽
 「新疆」という意味・・・これすら、妙だろ!?  (『漫画ドリーム09~音楽寅さんver.』「7月 中国・新疆ウイグル自治区で暴動」)

 大西広さん、聞いてます?
 それはこっちにおいといて~(ジェスチュア入る)、特典ディスクで、第一期の最終回、桑田さんがユースケ・サンタマリアさん(なんかさん付けにするとおかしいな)の“死体”をドラム缶に入れたうえリヤカーを引っ張って海岸へ捨てに行き、浜辺にドラム缶を放置したあと逃げるように去っていくというエンドシーンがまた見られて、とても良かった。(説明口調も時にはよろし。)
 第一期と第二期のあいだの特番では、確か、ユースケ・サンタマリアさん(ああもう長いなあ!)は、このドラム缶のなかから復活するのであった。なんちゅう異様な始まりかたすんねんと強烈だった。

(桑田佳祐/ユースケ・サンタマリア出演 『「桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~」あいなめBOX【通常版】』〈アミューズソフトエンタテインメント 2010年3月〉Disc 5)