『校讐通義』も収録。
内藤湖南の
「章學誠の史學」を読んでから、中江兆民ではないが「何となくエラキ人」と敬しはしたが、「
六経は皆史なり」と言われてもそれは当たり前ではないか、「やはり当時は先覚者だったのかもしれないが、いまでは過去の人なんだろう」と思って、遠ざけてきた。しかしやはり清代中国の、しかも18世紀末の乾隆・嘉慶の御代にこの言は尋常ではないと近頃あらためて思うようになって、読んでみた。
「六経皆史也」という言葉は『文史通義』冒頭の一句である。
六経は皆史なり。古人は書を著さず、古人は未だ嘗て事を離れて理を言わず。六経は皆先王の政典なり。 (「巻一 内篇一 易教上」)
見ようによっては、書籍というものは何らかのかたちで過去のことがらを記したものであるから、すべて史書(歴史書)だと言ってもかまわない。私が当たり前ではないかと思ったのはこの故にである。しかしながら、よく考えてみれば、経書というのは儒教の教えを説いた経典であって、その教え(道)は時間も空間も超越した、唯一絶対の真理であるはずだから、それを過去の事実として相対化してしまうのは、当時の中国ではもの凄い異端思想であったはずである。湖南は、章学誠は「道」までを否定したのではない、「道」のいにしえにおける顕れかた(器)としての六経を事実をしめす史書として見なしたのだというが、ちょっと疑問がある。原著を読んでいると、それは迫害を避けるための擬態ではなかったかという気がしないでもない。
湖南は、章学誠の思想のいまひとつの独特な点として、「言公」に見える議論を挙げている。
章學誠が言ふには、「古人の言は公の爲めにして、私に據つて己れが有と爲さず」と言つて居つて、古人が言を立てる、即ち著述をするといふやうなことは公の爲めにするものであつて、一個の私有物とする爲めに、之が自分のものだといふ爲めに立てるのではない。元來は道を明かにするが爲めに、言で以てその目的を明かにし、それから言を十分にする爲めに文といふものを用ひる、その文によつて目的が達せられれば、必ずしもそれが自分の説であると言つて、私有しなくてはならぬといふことはない。 (「章學誠の史學」)
しかしこれは、簡単にいえば著作権否定の思想であって、ただいまからすれば取り立てて斬新といえるものでもない。というか、
これは顧炎武について考えたときにも言ったことだが、当時の中国でも著作権(知的所有権)などという発想は殆どなかった。章は当たり前のことを言っているのである。湖南が章の独特の思想として言う、“一人の立言者があつた時に、その道を傳へた後の人は、その立言者の著述の後に直ぐ又附け加へて書いても、前の立言を推し弘める爲めであれば少しも差支ない。後の立言者は前の立言者と一體になつて、さうして之を又後世に傳へて差支ない”という章学誠の考え方は、当時ではごく普通の通念であったはずだ。このあたり、湖南の言うこと解しがたい。
それに、問題の箇所を読んでみると(「言公上」の冒頭部)、「古人の言は、公を為す所以なり。未だ嘗て文事に矜(ほこ)り私拠して己が有に為すにあらざるなり」とある。この「公」は明らかに「君主」のことであって、目新しいことはなにもない。章学誠は浙東学派の系譜に立つとされる人物だが、「公」のとらえ方については、学祖である
黄宗羲の公私観よりもむしろ退行している。
ただ、湖南の高評価については、湖南があとから注釈するように、“然るに後世の學者は、それらの古代の著述を見た時に、これが最初の立言者の眞の著述であつて、その附け加へたものは皆後人の僞作だといふ風に判斷をするが、その判斷は當つて居らぬ。つまり前の立言者に對して後の繼續者が擴充して書いたまでであるから、眞僞の議論をその間に加ふべきものではない”と、議論の範囲を考証学の方法論に限ってのこととするのであれば、解らぬでもない。
しかし、天命を論じて、伍子胥以来の“人衆ければ天に勝ち、天定まりてまたよく人を破る”(『史記』)と書かず、文章作法でも常識のうえでも定石を破って、「それでも人は勝つのだ」(“天定まりて人に勝ち、人定まりてまた天に能く勝つ”)(「巻三 内篇三 天喩」)と、まるで何かに叩きつけるように書きしるした章学誠という人は、湖南の言うのとはまた違った意味で面白い。もっと知りたくなる。
(中華書局 北京 1985年5月)