この本を読むまで、この著者の中国の民族問題に関する主張(注)は、よくある世間に一石を投じるためのいわばネタかと思っていたが、どうやら本気で「民族問題は経済問題(あるいは階級問題)だ」と思っておられるらしい。「そのやり方や時期の選択にいかに問題があったにせよ」毛沢東の文化大革命を「完全に正しいことであったと私は考える」(「〔補論2〕毛沢東と西洋思想」本書225頁)と言い切るのであればである。
注。たとえば『チベット問題とは何か “現場”からの中国少数民族問題』(かもがわ出版 2008年6月)。
「文化」は常に守られる対象ではなく、時に否定されねばならないことである。(「〔補論2〕毛沢東と西洋思想」本書225頁)
この意見自体には私も賛成する。しかし大西氏と私が違うのは、私は、文化の何が「守られる」べきかあるいは「否定されねばならない」かは、その文化の担い手自身が決められるし、また決めねばならないと思っているところである。しかし大西氏の場合、その決定権は民族自身ではなく国家や政府の側にある。
(大月書店 2009年7月)
注。たとえば『チベット問題とは何か “現場”からの中国少数民族問題』(かもがわ出版 2008年6月)。
「文化」は常に守られる対象ではなく、時に否定されねばならないことである。(「〔補論2〕毛沢東と西洋思想」本書225頁)
この意見自体には私も賛成する。しかし大西氏と私が違うのは、私は、文化の何が「守られる」べきかあるいは「否定されねばならない」かは、その文化の担い手自身が決められるし、また決めねばならないと思っているところである。しかし大西氏の場合、その決定権は民族自身ではなく国家や政府の側にある。
(大月書店 2009年7月)