年末に鬱陶しい話ですみません。ご海容ください。
人並み以上に道徳的とは到底思えない政治家が決め、誰でもそうであるように、道徳的かどうかは時と場合と人による教員が、学校で教科として「道徳」を教え、しかもそれを成績のごとく評価するという、およそ馬鹿げたことをするくらいなら、ぜひ試みてほしいことがあります。
それは、いわば「生死」科を義務教育にすることです。つまり、家族をつくり、次世代を担う子供を持ち、彼らを育てていくこと。そして、ついに自分や家族が老いて死んでいくとはどういうことか ーーー 自分自身についても他人についても、それをどう考え、どう扱っていくかを、実地に学ぶのです。
私は、時々、面会希望の人たちと話していて、この人はどうしてこれほど親との関係で苦労しなけれいけないのかと、気の毒になることがあります。また、世上では児童虐待の報道が絶えず、どうみても親にならない方がよかった思う人物を目の当たりにします。
他方、老いと介護の問題も、家族が小型化するにつれ、単に身内の「情愛」で始末がつかない状況になり、私自身も周辺で「介護殺人」一歩手前かというような、深刻な苦境にある人たちを見聞きします。
私は児童虐待や高齢者の虐待は、レイプ同様、「魂の殺人」に近いと思います。特に児童虐待は、その深刻な精神的後遺症を考えると、「殺人未遂」レベルの刑罰に相当すると思います。
今や、我々の社会は、家族を作り、子供を持ち・育てること、老いて死ぬことと看取ること、これを家族や地域において「自然に」学び身に着けることのできる環境にありません。赤ちゃんやお年寄りと日常を共にすることが、とりわけ人口が集中する都市部では、普通のことではないのです。
それらの意味と方法(公的補助・サービスの現状を含む)を、社会的配慮の下、きちんと早いうちから教育しなければいけない時代がついに到来したのではないでしょうか。
たとえば、小学校に保育園、中学校に高齢者施設(逆の方がいいか?)を万遍なく併設してみてはどうかと、私は最近よく思うのです。
そこで乳幼児や高齢者と否応なく触れながら、生きていく過程において起きてくる具体的な問題を発見しつつ、身体的行為を通じてそれに取り組む。これによって人間の「生死」の現実を学ぶほうが、よっぽど「道徳教育」に資するはずです。
もしそんな教科があれば、万一虐待されている児童・生徒がいたとしても、彼はそれがどれほど理不尽なことか気づけるかもしれません(ご承知のように、被虐待児はそれでも親を庇うし、その結果自分の方が悪いと思い込もうとするケースが多い)。
「子」を持つと決めた瞬間に、そこに無条件で一方的な責任が「親」と、親子関係を規定し次世代を必要としている「社会」に発生します。
動物が行うことのない看取りは、いわば人間として社会に生きることの代償であるとともに、尊厳でしょう。
その責任を果たし、代償を引き受け、尊厳を得るために、学校での「生死」科という提案は役に立たないでしょうか? 少なくともオヤジの思い込みだけでやっている「道徳」科(こんな浅薄なことを主導しているのは、中年以上の男に違いないと思う)より数段マシだと、同じオヤジの(もうジイさんか)私は思うのですが。
今年も本ブログをお読みいただき、ありがとうございました。皆様の平穏な迎春を心より祈念申し上げます。
人並み以上に道徳的とは到底思えない政治家が決め、誰でもそうであるように、道徳的かどうかは時と場合と人による教員が、学校で教科として「道徳」を教え、しかもそれを成績のごとく評価するという、およそ馬鹿げたことをするくらいなら、ぜひ試みてほしいことがあります。
それは、いわば「生死」科を義務教育にすることです。つまり、家族をつくり、次世代を担う子供を持ち、彼らを育てていくこと。そして、ついに自分や家族が老いて死んでいくとはどういうことか ーーー 自分自身についても他人についても、それをどう考え、どう扱っていくかを、実地に学ぶのです。
私は、時々、面会希望の人たちと話していて、この人はどうしてこれほど親との関係で苦労しなけれいけないのかと、気の毒になることがあります。また、世上では児童虐待の報道が絶えず、どうみても親にならない方がよかった思う人物を目の当たりにします。
他方、老いと介護の問題も、家族が小型化するにつれ、単に身内の「情愛」で始末がつかない状況になり、私自身も周辺で「介護殺人」一歩手前かというような、深刻な苦境にある人たちを見聞きします。
私は児童虐待や高齢者の虐待は、レイプ同様、「魂の殺人」に近いと思います。特に児童虐待は、その深刻な精神的後遺症を考えると、「殺人未遂」レベルの刑罰に相当すると思います。
今や、我々の社会は、家族を作り、子供を持ち・育てること、老いて死ぬことと看取ること、これを家族や地域において「自然に」学び身に着けることのできる環境にありません。赤ちゃんやお年寄りと日常を共にすることが、とりわけ人口が集中する都市部では、普通のことではないのです。
それらの意味と方法(公的補助・サービスの現状を含む)を、社会的配慮の下、きちんと早いうちから教育しなければいけない時代がついに到来したのではないでしょうか。
たとえば、小学校に保育園、中学校に高齢者施設(逆の方がいいか?)を万遍なく併設してみてはどうかと、私は最近よく思うのです。
そこで乳幼児や高齢者と否応なく触れながら、生きていく過程において起きてくる具体的な問題を発見しつつ、身体的行為を通じてそれに取り組む。これによって人間の「生死」の現実を学ぶほうが、よっぽど「道徳教育」に資するはずです。
もしそんな教科があれば、万一虐待されている児童・生徒がいたとしても、彼はそれがどれほど理不尽なことか気づけるかもしれません(ご承知のように、被虐待児はそれでも親を庇うし、その結果自分の方が悪いと思い込もうとするケースが多い)。
「子」を持つと決めた瞬間に、そこに無条件で一方的な責任が「親」と、親子関係を規定し次世代を必要としている「社会」に発生します。
動物が行うことのない看取りは、いわば人間として社会に生きることの代償であるとともに、尊厳でしょう。
その責任を果たし、代償を引き受け、尊厳を得るために、学校での「生死」科という提案は役に立たないでしょうか? 少なくともオヤジの思い込みだけでやっている「道徳」科(こんな浅薄なことを主導しているのは、中年以上の男に違いないと思う)より数段マシだと、同じオヤジの(もうジイさんか)私は思うのですが。
今年も本ブログをお読みいただき、ありがとうございました。皆様の平穏な迎春を心より祈念申し上げます。