当ブログで私はしばしば、「悟り」や「涅槃」について、それは要するに特殊な体験なのだとして、その体験が事実起こったとしても、それが何であるかを釈尊が直接説明しない以上、結局のところわからない話だと言ってきました。
となれば、釈尊以外の人間の「悟り」話は、所詮自分が「悟りだと思ったこと」にすぎません。すると後は、「悟り」言説の正当性および正統性を担保するシステム、これをどう構築するのかという理論的かつ技術的な問題、そして各々のシステムにどれくらいの支持が集まるのかという政治的な問題になるでしょう。
初期経典には、この辺の事情がすでに意識されていただろうと思わせる記述があります。それは「解脱すると解脱したと知る」という文句が繰り返し出てくるからです。つまり、「解脱」すると、その瞬間に「解脱したとわかる智慧」が生じると言うのです。
釈尊がこんなことをわざわざ言う必要はありません。彼は単に『解脱した』と言えばよいだけです。したがって、この文句はどう見ても別人の付加だと、私は思います。
後代になると文句は「解脱」と「解脱知見」という仏教語に整理されますが、「解脱知見」とはまさに、釈尊でもない人間が初めて「悟り」「涅槃に入り」「解脱した」と称される境地に達したとき、彼のその特殊な経験がなぜ「悟り」「涅槃」「解脱」だとわかったのかと問われた場合の用心として、準備された概念でしょう。
しかし、これはどう考えても無理な話です。「悟り」が何だかわからないのに「悟ったとわかった」と言うとき、その「わかった」が妄想ではないのかどうか判断する基準が、一切無いからです。
いずれにしろ、「悟り」「涅槃」「解脱」を何らかの特殊な体験、心身状態、意識変様だと考えるなら、「解脱知見」などという後知恵的な無理筋の概念を持ち出さざるを得なくなるでしょう。
追記:
『「悟り」は開けない』(KKベストセラーズ)という本を出しました。書名に自分のアイデアが採用されたのは、『老師と少年』(これはそれ以外に付けようがない)以来、2度目のことです。
私が仏教をどう考えてきたのか、仏教を方法として何を考えているのかが、おおよそわかる本になっていると思います。
となれば、釈尊以外の人間の「悟り」話は、所詮自分が「悟りだと思ったこと」にすぎません。すると後は、「悟り」言説の正当性および正統性を担保するシステム、これをどう構築するのかという理論的かつ技術的な問題、そして各々のシステムにどれくらいの支持が集まるのかという政治的な問題になるでしょう。
初期経典には、この辺の事情がすでに意識されていただろうと思わせる記述があります。それは「解脱すると解脱したと知る」という文句が繰り返し出てくるからです。つまり、「解脱」すると、その瞬間に「解脱したとわかる智慧」が生じると言うのです。
釈尊がこんなことをわざわざ言う必要はありません。彼は単に『解脱した』と言えばよいだけです。したがって、この文句はどう見ても別人の付加だと、私は思います。
後代になると文句は「解脱」と「解脱知見」という仏教語に整理されますが、「解脱知見」とはまさに、釈尊でもない人間が初めて「悟り」「涅槃に入り」「解脱した」と称される境地に達したとき、彼のその特殊な経験がなぜ「悟り」「涅槃」「解脱」だとわかったのかと問われた場合の用心として、準備された概念でしょう。
しかし、これはどう考えても無理な話です。「悟り」が何だかわからないのに「悟ったとわかった」と言うとき、その「わかった」が妄想ではないのかどうか判断する基準が、一切無いからです。
いずれにしろ、「悟り」「涅槃」「解脱」を何らかの特殊な体験、心身状態、意識変様だと考えるなら、「解脱知見」などという後知恵的な無理筋の概念を持ち出さざるを得なくなるでしょう。
追記:
『「悟り」は開けない』(KKベストセラーズ)という本を出しました。書名に自分のアイデアが採用されたのは、『老師と少年』(これはそれ以外に付けようがない)以来、2度目のことです。
私が仏教をどう考えてきたのか、仏教を方法として何を考えているのかが、おおよそわかる本になっていると思います。