仏教の初期経典には、
「〇〇は『わたしのものではない、わたしはこれではない、わたしの我(実体)ではない』」
という文句が繰り返し出てきます。仏教が「わたし」の実存に直接言及する、最も基本的な言い方です。これをよりわかりやすく書き換えると、
「Aはわたしのものではない、わたしはAではない、Aはわたしの我ではない」
ということでしょう。「A」とは「五蘊」すべて、要するに任意のものです。
「Aはわたしのものではない」とは、「所有」が対象を思い通りにすることを意味する以上、この文句は「思い通りにする」行為で「思う主体」を根拠づけることは不可能だと言っているのです(ということは所詮、デカルト的な「思う故に、有り」は成立しない)。
次の「わたしはAではない」とは、Aが任意である以上、言語によって行われる「自己」の認識はすべて成立しない、という意味になります。同時に、言語化されない「自己」認識は自分以外の誰にも伝達できないわけですから、一切無意味です(本人の「錯覚」と区別できない)。
最後の「Aはわたしの我ではない」は、「わたしがわたしである」ことを根拠づけるものが「わたし」それ自体に無い、と言っていることになります(Aが任意である以上、コンテクスト上の機能としては、「無我」と同じ)。
ということは、人間が行う「自己」認識はすべて錯覚だということです。しかも、その錯覚は言語の機能です。
ということは、この錯覚なくして「人間」の生活は不可能ですから、要は、錯覚の自覚を維持しながら上手に使い回すしかないでしょう。
そのとき大事なのは、常に仮設的な存在である「自己」がどのような条件下で成立しているのかを、よく考えることです。
「〇〇は『わたしのものではない、わたしはこれではない、わたしの我(実体)ではない』」
という文句が繰り返し出てきます。仏教が「わたし」の実存に直接言及する、最も基本的な言い方です。これをよりわかりやすく書き換えると、
「Aはわたしのものではない、わたしはAではない、Aはわたしの我ではない」
ということでしょう。「A」とは「五蘊」すべて、要するに任意のものです。
「Aはわたしのものではない」とは、「所有」が対象を思い通りにすることを意味する以上、この文句は「思い通りにする」行為で「思う主体」を根拠づけることは不可能だと言っているのです(ということは所詮、デカルト的な「思う故に、有り」は成立しない)。
次の「わたしはAではない」とは、Aが任意である以上、言語によって行われる「自己」の認識はすべて成立しない、という意味になります。同時に、言語化されない「自己」認識は自分以外の誰にも伝達できないわけですから、一切無意味です(本人の「錯覚」と区別できない)。
最後の「Aはわたしの我ではない」は、「わたしがわたしである」ことを根拠づけるものが「わたし」それ自体に無い、と言っていることになります(Aが任意である以上、コンテクスト上の機能としては、「無我」と同じ)。
ということは、人間が行う「自己」認識はすべて錯覚だということです。しかも、その錯覚は言語の機能です。
ということは、この錯覚なくして「人間」の生活は不可能ですから、要は、錯覚の自覚を維持しながら上手に使い回すしかないでしょう。
そのとき大事なのは、常に仮設的な存在である「自己」がどのような条件下で成立しているのかを、よく考えることです。