恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

不可能な「自己」

2017年06月10日 | 日記
 仏教の初期経典には、

「〇〇は『わたしのものではない、わたしはこれではない、わたしの我(実体)ではない』」

 という文句が繰り返し出てきます。仏教が「わたし」の実存に直接言及する、最も基本的な言い方です。これをよりわかりやすく書き換えると、

「Aはわたしのものではない、わたしはAではない、Aはわたしの我ではない」

 ということでしょう。「A」とは「五蘊」すべて、要するに任意のものです。

「Aはわたしのものではない」とは、「所有」が対象を思い通りにすることを意味する以上、この文句は「思い通りにする」行為で「思う主体」を根拠づけることは不可能だと言っているのです(ということは所詮、デカルト的な「思う故に、有り」は成立しない)。

 次の「わたしはAではない」とは、Aが任意である以上、言語によって行われる「自己」の認識はすべて成立しない、という意味になります。同時に、言語化されない「自己」認識は自分以外の誰にも伝達できないわけですから、一切無意味です(本人の「錯覚」と区別できない)。

 最後の「Aはわたしの我ではない」は、「わたしがわたしである」ことを根拠づけるものが「わたし」それ自体に無い、と言っていることになります(Aが任意である以上、コンテクスト上の機能としては、「無我」と同じ)。

 ということは、人間が行う「自己」認識はすべて錯覚だということです。しかも、その錯覚は言語の機能です。

 ということは、この錯覚なくして「人間」の生活は不可能ですから、要は、錯覚の自覚を維持しながら上手に使い回すしかないでしょう。

 そのとき大事なのは、常に仮設的な存在である「自己」がどのような条件下で成立しているのかを、よく考えることです。