人間の実存(経験的・具体的在り方)そのものを全体として自覚し、それを根拠づける原理や理念に関する思惟(さらに、それに基づく実践)の体系を形而上学と考えるなら、それは当然実存の中には無く(根拠づけるものが根拠づけられるものの中にあったら、根拠にならない)、個々の実存を普遍的に制御する、いわば「超越」的位置にあることになるでしょうから、形而「上」学と言われるのも、わかる話でしょう。
このとき、人間の実存は言語に強く浸透・拘束された、いわば「言語内存在」ですから、それを根拠づける原理や観念は、実存が日常使用する言語とは別次元に設定された、強力な「超越的」言語によって表現されるころになるでしょう(「神の言葉」「預言」「真言」「呪文」)。
仏教は、実存を全体として自覚しようとするとき、まずその「言語内存在」という存在様式それ自体を問題にします。そして、この実存を、何らかの原理や理念を持ち出して根拠づけることをせず、それ自体を禅定などの方法で解体して、その「外」に視点を設定する方法をとります。その視点から露わになるのが、「無常」「無我」と呼ばれる事態です。つまり、仏教は形而「上」学ではなく、形而「外」学です。
このとき問題なのは、形而「上」学は、実存に根拠を言語によって明白に提示するのに対し、形而「外」学はそれを与えないことです(「悟った」からと言って、実存する限り苦悩はやまず、「ニルヴァーナ」は何のことか説明がない)。
したがって、本来形而「外」学的体系であるものに形而「上」学的観念(「輪廻」「極微」「刹那」「仏性」「見性」)を導入することは、仏教の最もユニークでオリジナルな提案である、形而「外」学的な実存了解を毀損するでしょう。
このとき、人間の実存は言語に強く浸透・拘束された、いわば「言語内存在」ですから、それを根拠づける原理や観念は、実存が日常使用する言語とは別次元に設定された、強力な「超越的」言語によって表現されるころになるでしょう(「神の言葉」「預言」「真言」「呪文」)。
仏教は、実存を全体として自覚しようとするとき、まずその「言語内存在」という存在様式それ自体を問題にします。そして、この実存を、何らかの原理や理念を持ち出して根拠づけることをせず、それ自体を禅定などの方法で解体して、その「外」に視点を設定する方法をとります。その視点から露わになるのが、「無常」「無我」と呼ばれる事態です。つまり、仏教は形而「上」学ではなく、形而「外」学です。
このとき問題なのは、形而「上」学は、実存に根拠を言語によって明白に提示するのに対し、形而「外」学はそれを与えないことです(「悟った」からと言って、実存する限り苦悩はやまず、「ニルヴァーナ」は何のことか説明がない)。
したがって、本来形而「外」学的体系であるものに形而「上」学的観念(「輪廻」「極微」「刹那」「仏性」「見性」)を導入することは、仏教の最もユニークでオリジナルな提案である、形而「外」学的な実存了解を毀損するでしょう。
「外」なら毀損しようがなくないんだろうか。
毀損されると思うのは、言葉で地続きにし直すからじゃないの?言葉主義だから。