彼は若い頃から多彩な才能に恵まれていました。それを見込んで、多くの人から様々な仕事を依頼され、それに対して人並み以上の出来栄えで応え、相当の尊敬と収入も得ていました。
私は彼の才能を讃え、その働きぶりを称賛しました。そうしたら、彼はポツリと言いました。
「でもね、そろそろ本業を決めなければと思うんですよ」
私は聊か驚きました。彼にしてなお、そう思うのか。
彼の言葉は、近代以後の社会において、「自分が何者であるか」ということが、特定の「職業」によって決定されていることを、端無くも物語っているのです。逆に言えば、今の社会では、「本業」が曖昧な者は胡散臭い人間で、「無職」であることは「一人前の社会人」として認められないことを意味しているのです。
彼の話を聞いたとき、私にはふと思ったことがあります。
たとえば、話の流れで、誰かに「ご職業は?」とか「お仕事は何をなさっているのですか?」と訊いたとします。すると、当節多くの場合、
「会社員です」
と答えます。
ところが、同じ質問を別の人にしたとき、「会社員」とまったく同じような場所で同じような仕事をしている人が、「会社員」ではなく、
「派遣です」
と答えることがあります。これはおかしいでしょう。
この人の「職業」はどう考えても「会社員」のはずです。そして働き方が「派遣」でしょう。
にもかかわらず、彼が「職業」を尋ねられて「派遣」と答え、どうやら世間もそれを不思議と思わないらしいのは(様々な書類の中には、職業欄に「会社員」と並んで「派遣社員」という項目が入るものもあるそうです)、「派遣」は「会社員」とは別の職業だと思っている、ということでしょう。
とすると、この違いは、仕事内容と職場環境にほとんど差異がないなら、要するに「身分」の違いということになります。そして、現在の社会状況では、「派遣」は「会社員」より劣位にある「職種」という意味になるでしょう。
私は、「職業」が人々の所謂「アイデンティティ」の根幹をなす社会において、この状況は問題だと思います。
けだし、世に言う「同一労働・同一賃金」という原則は、単に待遇や賃金の問題だけではありません。この原則は、「自分が何者であるのか」という決定的問題に深く関わります。
少なくともこの原則の貫徹は、「派遣」という働き方をしている人が、「ご職業は?」と訊かれて躊躇なく「会社員です」と即答するための、十分条件ではないかもしれませんが、必要条件でしょう。
雇用政策が論じられるとき、よく経営者側が、「派遣」などの「非正規労働」の形態を擁護して、
「働き方を選ぶ自由のためにも、このような雇用形態が必要なのだ」
という言い方をしますが、もし本当にそう思うなら、「同一労働・同一賃金」の原則を遵守して、「自由に働き方を選んだ結果派遣となった、まぎれもない会社員」という自意識を働く人が持てるように、制度をきちんと設計すべきです。
この分野では門外漢の所感ですが、ことが実存の問題だと思うので、あえて申し上げました。
追記:次回「仏教・私流」は、3月21日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。