このブログで私が度々、「『真理』は嫌いだ」などと書くのを見て、それはどういう意味だと、今もよく質問されています。そこで、「嫌い」な理由を再度。
「真理」は認識ではなく、信仰です。もっと言えば、欲望です。何がしかの認識を、「真理」と呼んで「正しい」ものとして主張したいということです。
「真理」は「真理」であるが故に検証しようがありません。なぜなら、「真理」という以上は普遍的に、つまり、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも、「正しい」と認識されなければ、「真理」という言葉の定義に反するでしょう。
ところが、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも「正しい」かどうかを、有限的な存在の人間には、検証のしようがありません。
したがって、「真理」はそう信じ、そう主張する者、すなわち「信仰」する者にとってしか「真理」たりえません。
問題なのは、ここから先です。上述の事情から、「真理」はそれ自体に真理の根拠を持ちえません。すると、「真理である」ことの主張は、しばしば、自らに反する意見や主張を徹底的に排除することで、なされる場合が出てきます。
私は、「真理」が持ちやすい、この傾向が嫌いなのです。この構造は、原発の「安全神話」と共通です。
原発を持ちたい。しかし、安全は完全には担保しきれない。ならば、「絶対安全」と主張し続けて建設するしかない。そのうち「神話」は「原発は安全」という「真理」に転化し、それに対する反論は、徹底的に排除されていった、というわけでしょう。