仏教で語られる教説に「輪廻」があります。これは簡単に言ってしまえば、生まれ変わり死に変わりを繰り返すことです。また、どこにどのように生まれ変わるかは、生まれ変わり死に変わりする当事者の、存命中の行いの善し悪しによることになります。この「行い」の善し悪しの「結果」という部分で、「業(=行い)」の教説と結びつき、「業・輪廻説」という具合に、同じ観念として扱われることもあります。
私が思うに、「生まれ変わり死に変わり」で「輪廻」を考えるなら、どう考えても、仏教の「無常・無我・縁起」の教説とは両立しないでしょう。なぜなら、、「生まれ変わり死に変わり」と言う以上は、それが何であれ、「生まれ変わり死に変わり」する当の何ものかの同一性を前提にしないわけにはいかないからです。
この問題は、何も私だけが感じる矛盾ではなく、「無常・無我・縁起」説と「輪廻」説をどう折り合わせるかが、長い間(おそらく今でも)、仏教史上きわめて重要な理論的テーマであり続けました。私としては、無理に折り合いをつけるのは、止めたほうがよいと思うわけです。
「我」すなわち「アートマン」のごとき、自己の自己性を保証する実体的観念を「輪廻」の当体として否定したとしても、かわりにたとえば「識(たとえば唯識説で説く阿頼耶識)」のようなものを設定して、その「同一性」を思考が暫定的に設定する概念にすぎないと考えるのではなく、それ自体実在するものだと考えた時点で、理論上、「我」と同じく機能することになります。
もし「阿頼耶識」本体であろうと、そこから「生まれでた」個々の「識」であろうと、その内実が刻々と変化し、任意のある時点の前後で、いかなる同一性も一切持たないというなら、そもそも「生まれ変わり死に変わり」という観念自体が成り立ちません。川は概念的形式として「同じ川」に見えますが、流れている水は事実として同一ではありません。だから、「川が輪廻している」とは、誰も、いかにしても言えないのです。
「輪廻」からの解脱とは、私に言わせれば、「輪廻」という観念の解体のことです。では、「業」はどうか。私は、「業」の教説は、維持されるべきだと思います。
「業」の教説の核心は「因果」説です。その原因の部分に人間の行為を設定し、その結果として自己や世界の存在の仕方を認定する思考方法が、「業・因果」説なのです。
ここで大事なのは、「因果」説はそれ自体に根拠を持たないということです。「因果」はそれ自体で存在する不変で絶対的な「原理」「法則」ではありません。そもそも、あらゆる「原理」「法則」は人間の頭ではそう考える、というに過ぎません。思考する意識が存在しなければ、「原理」「法則」もありません。「因果」もしかり。これは、道具を使うような意識を持つ存在が思考するとき、どうしても採用せざるを得ない方法、決定的に重要ではあるものの、要はそれこそ、単なる思考の道具です。
大事なのは、第一に、原因があればそれに応じた結果があるという「因果」の考え方は、人間において、自己が自己として維持されるためにどうしても必要だということと、第二に、その原因ー結果関係は、それ自体で存在するのではなく、我々がみんなで信じる以外に機能しないし、それどころか存在余地も無いということです。
どうして、必要で信じなければならないのか。この考え方なしには、仏教において、「責任」と「権利」の観念が成り立たず、つまり行為する主体の主体性が構成されず、その行為における善の肯定と悪の否定を根拠付けられないからです(「無常・無我・縁起」説と「輪廻」説を無理にでも折り合わせようと苦労し続けてきたのも、根底にこの問題があるからでしょう)。
そこで最後の問い。仏教では「業・因果」説が、一神教などでは「神」が、いわば善悪の区別を根拠付け、善行を勤め悪行を止めるように教育し強制します。なぜか。なぜ、かくも必要とされ、必要であるにもかかわらず強制されるのか。
「善悪」は、なぜ人間において、その内容が時(時代)と場合(社会状況)でクルクル変わるほどいい加減であるにもかかわらず、その「区別」だけはどこでもいつでも必要とされ、それを強制する観念的あるいは制度的装置が工夫され維持され続けるのか。
私がいま、それなりに真剣に考えていることです。