以前このブログの記事にいただいたコメントで、上座部(小乗)仏教と大乗仏教の違いについてどう考えるかという質問がありましたが、最近ある人から答えるように催促されましたので、若干の考えを述べてみようと思います。
このことを考える前提として、まず言っておかなければならないのは、そもそも私には、上座部と大乗を比較して、「どちらが正しいか、どちらが優れているか」というテーマを論じる興味も関心もない、ということです。
それというのも、私は仏教に限らず、あらゆる宗教や思想に、「真理」や「正しい教え」を求めていないからです。私には、幼少以来みずからに取り憑いて離れない問題があって、極端に言えば、これにしか持続的な関心が持てないのです。
このとき、仏教は私にとって問題にアプローチする方法、いまのところ最も有効で頼りになる方法、しかし所詮方法なのです。それ以上でも以下でもありません。
したがって、方法として有力なら何でもよいのです。もし仮に、今後仏教より有効な方法が見つかったと確信したなら、間髪入れず、それに乗り換えるでしょう。だとすれば、上座部と大乗の違いなど、気にするような違いではありません。
この立場から言うと、まず、仏・如来と言われれば、私が心底共感し、リアルな存在と感じるのは、パーリ語経典に伝えられる元釈迦族の王子、ゴータマ・ブッダだけです。主に大乗経典に出てくる如来、法華経の「久遠実成」の釈迦如来や、華厳の毘盧遮那如来、浄土教の阿弥陀如来などには、思想上の概念として強い関心がありますが、それだけです。その意味では上座部「教徒」でしょう。
一方、仏教思想として、私が核心中の核心と考える、「無常」・「無我」・「縁起」・「空」の教えを考える上では、般若経系経典で説かれる思想、特に言語や無意識の存在を視野に収める「中観」「唯識」など、インド大乗の思想に勝る示唆を与えてくれるものはありません。そういう点で言うと、間違いなく大乗「教徒」です。
これに対して、上座部仏教を代表するとされる『倶舎論』で展開される議論などは、詳細で複雑とはいえ、結局は要素還元主義的に体系化された、カテゴリーの一覧表にしか見えず、その意味で単純で、底の浅さを感じます。
とはいえ、この『倶舎論』の思想や、他の大乗の教え、華厳、法華、浄土、中国禅などの思想も、問題設定を変えれば方法として有効になることもあるわけですから、「間違っている」という言い方で否定する必要も根拠も、私は感じません。
というわけで、先に申したとおり、とりあえず、ゴータマ・ブッダと道元禅師の遺した言葉から読み取れる思想と実践を、自分の問題に最も有効な方法として信用する、これが今のところの私のスタンスです。