恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ケアの思想

2024年04月01日 | 日記
 先日、終末期医療に関わる医療者(医師、看護師、介護士など)の方々にお話をする機会がありました。この時、私が考えていたのは、ケアという行為の根本的な問題でした。

 通常、心身に不調のある方に対する医療的介護的ケアこそが、ケアという行為の本領のように思われるでしょうが、私は、ケアは人間の存在の仕方を規定する、根源的な行為だと思います。

 我々は自己決定で生れてきません。肉体も社会的人格も他者に由来します。自己が自己であることは、その最初から他者の配慮と承認によるのであって、その存在そのものが極めて脆弱なのです。この他者による配慮と承認こそ、根本的な、いわば存在論的なケアだと言えるでしょう。

 終末期のケアは、もはや治療の限界を超え、人間的な脆弱性が剥き出しになった状態で行われる、存在論的ケアの極相と言うべき事態です。

 この時、終末期の人をケアする人(医療関係者)も、人間である以上、存在論的ケアを必要とするはずです。非常に困難な状態にある人に向き合い続けることは、その人の剥き出しになった脆弱性を通じて、今度は自己に潜在している脆弱性が、強烈に自覚されることになります。ならば、このケアする人をケアすることを無視して、そもそもケアは成りたたないでしょう。

 私は、ケアは連鎖すべきだと考えます。そしてケアは双方向的であり得ると思います。ケアされる人は、行動が大きく制限されようとも、少なくともケアする人に敬意とねぎらいの気持ちは持てるはずです。これは、おそらく存在論的ケアの土台であり、あらゆる「自己」に必要とされることなのです。

 私は、ケアの連鎖に宗教者が連なるべきだと思いますし、連ならなければならないと思ってきました。微力ながら、機会を与えられれば、今後とも、この問題に取り組んでいこうと、考えています。