八時半の電車の中は、通勤や通学の人々が互いの体で互いの体を押して、時に波打ちながらも、無事に立っている。その光景は昔ながらだが、当節はこの混雑の最中に、人はそれぞれ、いくつもの体の隙間から片手を抜き出して、スマートフォンを見ているのである。
このいつもの様子が、その日いささか違ったのは、ほぼ黒と紺の一色の車内に、パステルカラーの親子が一組混じっていたことだ。
三十歳くらいかと見える母親は胸に乳飲み子を抱き、幼稚園の帽子らしきものを被る女の子が、母親の左腕につかまって立っていた。胸から迫り出した赤ん坊は、前に坐る男の頭のすぐ上に来ていたが、幸い、彼はスマートフォンに没入していて、赤ん坊の尻には気がつかない。
姉らしい女の子は、林立する周りの男の中に埋没して、自分の上空の酸素を吸われてしまって苦しいかのごとく、時々口を開いたり閉じたりした。
私は、この母親のすぐ右隣りに立っていた。何もこの時間に電車の乗らなくてもよさそうなものだ。まあ、事情があるんだろう・・・などと思うともなく思っていたら、いきなり電車が大きく横揺れした。
すると、それまで首を上に90度折り曲げて、天井をぼんやり眺めていた赤ん坊が、「あー、あっ、あっ」と唸りだした。
最初呟くようだったその声は、次第におおきくなった。「うああー、おうおう、ああー」
母親の落ち着いた「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」も、赤ん坊の声に合わせてテンポが速く、口調が強くなった。
「あっ、あーあー、うああああ」
周りの大人の何人かが、顔を母親に向け始めた。
「うっせえなあ」
かすかだが、私に聞こえるのだから確実に母親にも聞こえる声が、近くから漏れた。
その時、赤ん坊が、息を止めて、顔中を丸めた紙のように皺だらけにした。
アッ、泣く、と私が思った刹那、おそらく泣こうとして大きく口を開け、薄目を開けた赤ん坊が、私を見た。その瞬間、まさに条件反射で、私は無言のまま、目を大きく見開き、口を「あ」の字にして、舌を出し、
「べろべろばー」
赤ん坊は驚いたのだろう。顔が固まった。この直後、自分が原因で泣かせたら、もっとまずい。私は続けざまに顔芸を繰り出した。
すると、赤ん坊は、固まったままで、目だけ私を捉えている。
隣の母親は私の左手の陰になり、顔芸を見ていない。周囲の者も、相変わらずスマートフォンか、そうでなければ眼を閉じた居眠り状態で、おそらく私の努力を知らない。
が、ふと視線を感じて下を見ると、英語の単語帳を手にもった女子と視線が合った。合ったと思う間もなく、全く無表情なまま、彼女は単語帳に視線を戻した。
大量の降車のある駅で、親子も降りた。おそらく、私の顔芸は結局、母親は無論、周囲の誰にも気づかれなかっただろう。
私の降りる駅に着いた。ドアが開き、外に出た途端、左から声がした。
「ごくろうさまでした」
リュックを肩にかけた女子が、私を足早に追い越した。
彼女は見たのか。私はちょっと嬉しかった。
そして、そのちょっとの嬉しさが、情けなかった。
このいつもの様子が、その日いささか違ったのは、ほぼ黒と紺の一色の車内に、パステルカラーの親子が一組混じっていたことだ。
三十歳くらいかと見える母親は胸に乳飲み子を抱き、幼稚園の帽子らしきものを被る女の子が、母親の左腕につかまって立っていた。胸から迫り出した赤ん坊は、前に坐る男の頭のすぐ上に来ていたが、幸い、彼はスマートフォンに没入していて、赤ん坊の尻には気がつかない。
姉らしい女の子は、林立する周りの男の中に埋没して、自分の上空の酸素を吸われてしまって苦しいかのごとく、時々口を開いたり閉じたりした。
私は、この母親のすぐ右隣りに立っていた。何もこの時間に電車の乗らなくてもよさそうなものだ。まあ、事情があるんだろう・・・などと思うともなく思っていたら、いきなり電車が大きく横揺れした。
すると、それまで首を上に90度折り曲げて、天井をぼんやり眺めていた赤ん坊が、「あー、あっ、あっ」と唸りだした。
最初呟くようだったその声は、次第におおきくなった。「うああー、おうおう、ああー」
母親の落ち着いた「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」も、赤ん坊の声に合わせてテンポが速く、口調が強くなった。
「あっ、あーあー、うああああ」
周りの大人の何人かが、顔を母親に向け始めた。
「うっせえなあ」
かすかだが、私に聞こえるのだから確実に母親にも聞こえる声が、近くから漏れた。
その時、赤ん坊が、息を止めて、顔中を丸めた紙のように皺だらけにした。
アッ、泣く、と私が思った刹那、おそらく泣こうとして大きく口を開け、薄目を開けた赤ん坊が、私を見た。その瞬間、まさに条件反射で、私は無言のまま、目を大きく見開き、口を「あ」の字にして、舌を出し、
「べろべろばー」
赤ん坊は驚いたのだろう。顔が固まった。この直後、自分が原因で泣かせたら、もっとまずい。私は続けざまに顔芸を繰り出した。
すると、赤ん坊は、固まったままで、目だけ私を捉えている。
隣の母親は私の左手の陰になり、顔芸を見ていない。周囲の者も、相変わらずスマートフォンか、そうでなければ眼を閉じた居眠り状態で、おそらく私の努力を知らない。
が、ふと視線を感じて下を見ると、英語の単語帳を手にもった女子と視線が合った。合ったと思う間もなく、全く無表情なまま、彼女は単語帳に視線を戻した。
大量の降車のある駅で、親子も降りた。おそらく、私の顔芸は結局、母親は無論、周囲の誰にも気づかれなかっただろう。
私の降りる駅に着いた。ドアが開き、外に出た途端、左から声がした。
「ごくろうさまでした」
リュックを肩にかけた女子が、私を足早に追い越した。
彼女は見たのか。私はちょっと嬉しかった。
そして、そのちょっとの嬉しさが、情けなかった。