経典を読んでいると、こんな話もあるのかと、びっくりすることがあります。以下は、初期経典にあるエピソードです。
ゴータマ・ブッダの弟子グループが、別の修行者グループを訪問します。すると、この別グループの修行者が、悟りの至るための七つの修行(七覚支)を取り上げて、これらはブッダも説いているが、自分達も説く。ブッダが説くことと自分たちが説くことに何の違いがあるのかと、質問しました。
七つの修行とは以下のようなものです。
一、おもいを平らかにする。(念覚支)
二、教えの中から真実のものを選択し、偽のものを捨てる。(択法覚支)
三、一心に努力する。(精進覚支)
四、真実の教えを実行することの喜びに住する。(喜覚支)
五、心身を軽やかに快適にする。(軽安覚支)
六、心を集中して乱さない。(定覚支)
七、対象へのとらわれを捨てる。(捨覚支)
日本語訳が適切だとすると、一、四、五などは、具体的に何をするのか、判然としません。
四は、修行すると自然に喜びが感じられるようになるから、それを手放すなということなのか、修行することを敢えて喜びとして、その思いを保てと言いたいのか、よくわかりません。
五は、おそらく、修行して煩悩から解脱すれば、心身ともに楽になるということではないでしょうか。
一番わからないのは一で、解釈がマチマチです。
一説には、「正しい念」、つまり「苦・無情・無我」など、仏法の世界観を忘れずに記憶し続けることだと言います。
あるいは、禅定と智慧のバランスをとることだとします。
他には、心で今の瞬間の現象を自覚することだ説きます。これは念の原語「sati」を「気づき」と解釈するところからの言い分でしょうが、「sati」も元々の意味は、特定の物事を心に留めて忘れないことです。
「平らか」ということを、物事に対して価値判断をせず、そのものをそのものとして受容することだと考えれば、禅定に近い意味とも言えるでしょう。
さて、弟子を通じて別グループの修行者の質問を聞いたブッダは、驚くようなことを言います。要するに、自分の説法との違いは、どのような場合にどの修行をするかを示すかどうかだと言うのです。
まず、気分が鬱状態(惛沈・こんちん)の時は、五と六と七は修行してもダメで、そういう時は、二と三と四を修行すると気持ちが活発になると説きます。
その反対に、気分が躁状態(掉挙・じょうご)の時には、二と三と四の修行は不適当で、五と六と七が気持ちを落ち着かせると言うのです。
また一については、最後に、鬱・躁を問わず、いつしてもよいと教えているのです。
この教えは、要するに気分に応じて修行をせよ、無理をするなということでしょう。永平寺時代、気分など一切無視して闇雲に修行していた私としては、この部分を初めて読んだ時に仰天したものです。
ブッダは苦行を否定したと言いますが、それをこの教説ほど具体的に示すものはありません。ブッダの言葉の根底に一貫して響く、プラグマティズムの音色を聞く者は、私ばかりではないでしょう。
ゴータマ・ブッダの弟子グループが、別の修行者グループを訪問します。すると、この別グループの修行者が、悟りの至るための七つの修行(七覚支)を取り上げて、これらはブッダも説いているが、自分達も説く。ブッダが説くことと自分たちが説くことに何の違いがあるのかと、質問しました。
七つの修行とは以下のようなものです。
一、おもいを平らかにする。(念覚支)
二、教えの中から真実のものを選択し、偽のものを捨てる。(択法覚支)
三、一心に努力する。(精進覚支)
四、真実の教えを実行することの喜びに住する。(喜覚支)
五、心身を軽やかに快適にする。(軽安覚支)
六、心を集中して乱さない。(定覚支)
七、対象へのとらわれを捨てる。(捨覚支)
日本語訳が適切だとすると、一、四、五などは、具体的に何をするのか、判然としません。
四は、修行すると自然に喜びが感じられるようになるから、それを手放すなということなのか、修行することを敢えて喜びとして、その思いを保てと言いたいのか、よくわかりません。
五は、おそらく、修行して煩悩から解脱すれば、心身ともに楽になるということではないでしょうか。
一番わからないのは一で、解釈がマチマチです。
一説には、「正しい念」、つまり「苦・無情・無我」など、仏法の世界観を忘れずに記憶し続けることだと言います。
あるいは、禅定と智慧のバランスをとることだとします。
他には、心で今の瞬間の現象を自覚することだ説きます。これは念の原語「sati」を「気づき」と解釈するところからの言い分でしょうが、「sati」も元々の意味は、特定の物事を心に留めて忘れないことです。
「平らか」ということを、物事に対して価値判断をせず、そのものをそのものとして受容することだと考えれば、禅定に近い意味とも言えるでしょう。
さて、弟子を通じて別グループの修行者の質問を聞いたブッダは、驚くようなことを言います。要するに、自分の説法との違いは、どのような場合にどの修行をするかを示すかどうかだと言うのです。
まず、気分が鬱状態(惛沈・こんちん)の時は、五と六と七は修行してもダメで、そういう時は、二と三と四を修行すると気持ちが活発になると説きます。
その反対に、気分が躁状態(掉挙・じょうご)の時には、二と三と四の修行は不適当で、五と六と七が気持ちを落ち着かせると言うのです。
また一については、最後に、鬱・躁を問わず、いつしてもよいと教えているのです。
この教えは、要するに気分に応じて修行をせよ、無理をするなということでしょう。永平寺時代、気分など一切無視して闇雲に修行していた私としては、この部分を初めて読んだ時に仰天したものです。
ブッダは苦行を否定したと言いますが、それをこの教説ほど具体的に示すものはありません。ブッダの言葉の根底に一貫して響く、プラグマティズムの音色を聞く者は、私ばかりではないでしょう。