恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

私の「私流」

2021年04月20日 | 日記
「君は時々『私流』という言葉を使うだろう?」

「うん」

「それに、『自分なりに』とか『自分としては』みたいな言葉をよく使うよな」

「その傾向はあるな」

「それ、言い訳? 反論されたときに、理屈の有効性を予め限定するための手段?」

「そう来たかあ。まあ、そうとる向きもあるか」

「じゃ、どんな意味なの?」

「ぼくは、理屈を言う時、自分の体験に具体的に刺さらないとダメなの。理屈が正しいかどうか、本当か嘘かは、極端に言うとどうでもいいの。自分の体験的な疑問を説明する理屈として有効かどうか、自分が納得できるかどうか、それだけなの。それが『私流』の意味」

「たとえば、どういうこと?」

「因果律ってあるだろう。原因―結果関係」

「ああ。仏教だと『因果の道理』みたいな言い方をして、『仏教の真理』として主張されるよな」

「ぼくが昔、それこそ思春期の入り口くらいに思いついて、非常に疑問に思ったのは、原因は普通『なぜ』という問いの答えとして出て来るだろう。でも、答えとして出たものには、さらに『なぜ』と問えるはずだ」

「なるほど、『なぜ』はいくらでも続く。問題は、どこで止めるかをどう決めるのか、ということだな」

「すると、それは自分の都合だろうとしか、言いようがない。当時は『まさか』と思い自信が無かったが、その後に『諸行無常』という考え方を知って、それでいいんだと思った」

「『原因』が『原因』であることに、確たる根拠は無いということか?」

「そう。でも、ぼくはその辺がしつこくて、今度は『自分の都合』とは何かという話になる」

「それはどういう意味だ?」

「確たる根拠もなく『原因』を決定したいと思うのは、どうしてなのか」

「確かにしつこいな。それはいつ頃の話だ?」

「哲学書とか思想書読み出した頃で、結局自分で腑に落ちたのは、これは『道具』の応用だなということ」

「ハイデガーか?」

「影響甚大」

「なるほどね。で?」

「つまり、『道具』の手段―目的関係を応用してものを考えるというのは、対象を思い通りにしたいということさ」

「そしてそれは、『所有』の概念と同じ」

「そして、『所有』とは対象の『他者性』を消去すること。これを逆に言えば、『自我』の錯覚的肥大だろう」

「だから、因果律もそれ自体では『真理』ではないというわけか」

「結局は自己都合の道具」

「というのも、仏教によって君が考え出した理屈だろう」

「そう。そして、理屈はすべからく因果律に規定されるから、ぼくのも自己都合の理屈にしかならない」

「すると、いわゆる『真理』とは? どう定義する?」

「より『所有』効果の高い『自己都合』理屈の、限定的共有化であり集団化」

「そう思うから、話すときには何ごとも『私流』と言いたいわけか」

「そう。ね、よくできてるでしょ」

「実に胡散臭いな」

「イイ落ちだ、くらい言えよ」