恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

切なさの向こう側

2020年10月10日 | 日記
「最近、クリスチャンの人と会ってね」

「クリスチャン? 君も間口が広いんだな」

「その人、ここ4、5年のうちに身内を二人、亡くしてるんだ」

「ほう」

「最初は父上で、これはしばらく病床について、家族に看取られて亡くなったそうだ」

「もう一人は?」

「それが今年、思わぬことで突然、姉上を亡くされたんだ」

「それはショックだったろうな」

「で、その人がしみじみ言ってたんだが、父上のときは、それなりに家族は大変なこともあったが、十分看取りもできて、最後の最後まで家族の時間を共有できたそうなんだ」

「なるほど」

「で、そのときは、自分の思いとして、お父さんは天国に行ったと、同じ信仰を持たない父とは言え、安らかに来世へと旅立ったと、そう思えたという」

「ところが、姉上ではそうならない」

「そのとおり。突然、断ち切られるように死に別れると、そんな気持ちになれない」

「いわゆる死に目にも会えなかったわけか」

「そういうことだ。そうなると、気持ちは悲しみを通り越して、何でこんなことになったのか、という嘆きになる」

「行先を思うどころか、その出来事自体が理解できずに混乱するわけだな」

「天国のことなど、まるで頭に浮かばなかったらしい」

「天国とか極楽とかを素直に想うことができるには、それなりのプロセスが必要というわけか」

「そういう気がするね。不慮の死別、突然の別れ、それも事件・事故・災害のようなものに遭っての死別となると、往々にして『なぜこんなことが・・・』という答えの出ない問いに襲われ、それが激しい自責や後悔の念となって、遺族を苦しめる場合がある」

「あのとき自分がこうすれば、こんなことにならなかったのではないか、もっと自分にできることがあったのではないか・・・・・、そう思ったりするわけか」

「無理もないと思うんだ。でも、そういうときに僕が残念というか、忘れてほしくないと思うのは、遺族の激しい自責や後悔は、亡くなった人への深い愛情、大切に思う気持ちがあればこそなんだ。その気持ちは、すでに十分伝わっている。自責や後悔は、しばしばそのことを忘れさせてしまう。感情がそれらに蹂躙されて、ひどい時には健康さえ害する」

「確かに、愛されて亡くなった人が遺族を責めるとはとても思えないよな」

「自責や後悔の念はわかる。そう簡単には消えるはずもない。また性急に消す必要もない。ただ、それを抱きながら生きるとすれば、亡くなった人を愛し、大切にしてきた日々を、決して忘れずに思い起こしてほしい。それがとても大事だと、僕は思う」

「確かになあ。だが、それにしてもキリスト教徒がお寺に、か」

「不条理な出来事に突然遭うと、『万能の神』より『諸行無常』のほうが人情の機微に触れるのかもしれないな」