恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

他者への開け

2018年12月30日 | 日記
 数年前に倫理関係の本を出し、昨年は同様のテーマで講演もし、最近は雑誌の「倫理」特集でインタビューを受けました。

 すると、知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。

 そこで、年の瀬にもう一度、倫理についての私の考えを述べておこうと思います。

 同じものだと考えられがちですが、倫理と道徳は別物だと、私は考えます。

 道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。

 当の共同体において、「人を殺してはいけない」「困っている人は助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」「正直であるべきだ」などという道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。

 したがって、倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。

 なぜなら、「自己」は「他者に課され」て始まるからです。我々の身体は「他者」に由来し、命名を通じて最初の社会的人格を一方的に与えられます。「自己」は「他者」に被曝することで始まるのです。

「自己」がそのように開始されると、次は「他者」による「躾け」や「教育」を通じて、共同体の道徳が浸透してきます。「自己」はもちろんそれを拒否できません。それどころか、浸透を通じて我々は「自己」に仕立てられるのです。我々の実存が「他者に課された自己」として構造化されていくわけです。

 倫理が最初に起動するのは、この「他者に課された自己」という構造を自覚したときです。そして、自覚は「課す他者」を規定する共同体の弱体化や動揺に、多く由来します。それは現象的には、共同体の行為規範たる道徳の揺らぎを招きます。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いがあからさまに出現する所以です。

 動揺は「他者に課された自己」という構造全体に波及し、それが実存する当事者に構造の自覚を促します。

 したがって、道徳的であることは、社会的存在である人間すべてに強制されますが、倫理的であることはそうではありません。倫理的であることは、実存が危機に瀕した人間にとってのみ、テーマとなる(なることがある)のです。

 かくして、「課された自己」全体の動揺は、あらためて「他者」に対して態度を決め直すことを要求します。

「自己」として実存する限り、「他者」を不可欠の条件とする構造からは逃れられません。ということは、この上さらに「生きる」とは、実存構造を自覚した上で、これを「引き受ける」と決意することなのです。倫理的な実存が立ち上がるのはこの局面です。

 それは具体的には、「他者」への態度の転換として現実化します。「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。

 その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。

 宗教が入信に当たって戒律を課すのは、教義に基づいた行為規範(戒律)を入信志願者に改めて選択させることを通じて、新たな「自己」を課すためです。

「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。最終的に宗教を方法とするかどうかは別として。

 今年も当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。皆様の新年のご多幸を心より祈念申し上げます。