「いつも思うが、君は一体どういうつもりで仏教に取り組んでいるんだ?」
「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」
「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」
「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」
「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」
「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」
「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」
「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」
「そう興奮するなよ」
「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」
「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」
「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」
「要は実験か?」
「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」
、
「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」
「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」
「そして?」
「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」
「それで問題が解決するのか?」
「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」
「じゃ、何をしているんだ?」
「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」
「こむずかしい話だな」
「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」
「えっ、そんなことなのか?それだけ?」
「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」
「つまらんな」
「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」
「では、君にとってのメリットは?」
「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」
「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」
「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」
「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」
「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」
「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」
「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」
「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」
「そう興奮するなよ」
「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」
「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」
「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」
「要は実験か?」
「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」
、
「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」
「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」
「そして?」
「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」
「それで問題が解決するのか?」
「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」
「じゃ、何をしているんだ?」
「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」
「こむずかしい話だな」
「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」
「えっ、そんなことなのか?それだけ?」
「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」
「つまらんな」
「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」
「では、君にとってのメリットは?」
「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」