恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

レオはきらいだ。

2015年03月30日 | 日記
 手塚治虫の偉大さは、今更私が云々するまでもありませんが、それにしてもなぜ、彼は「文化勲章」とか「国民栄誉賞」とかの対象にならなかったのでしょう(他の受賞者の業績と比較して、どこに遜色があるのでしょう)。

 彼は単にすぐれた表現者であるにとどまらず、「(ストーリー)漫画」という新たな表現のジャンルを創造した人物です。その独創性と影響力から言って、「歴史的人物」と称されるに足りると、私は思います。

 こう言った上でなお、私は手塚漫画の代表作、「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」が嫌いなのです。この2作に共通するものは何か。それは擬人化です。

 アトムの場合、テレビアニメの主題歌が象徴的です。「ラララ こころやさしい」とか「ラララ こころ正しい」、という部分。機械が心を持つという発想が、私は最初からダメでした(したがって、私は熱烈な「鉄人28号」派)。

 私が当時から漠然とイヤな感じがしていたのは、機械がやさしかったり正しかったりする以上、意志があるわけで、ならば、もはや人間の力では機械のすることをコントロールできなくなると思ったからでしょう。当時はっきりと考えがまとまっていたとは思いませんが、アトムが「自分の意志」で敵を破壊するのを見て、私自身が彼の「敵」になることもありえると感じた記憶があります。

 レオが嫌いだったのは、レオが草食動物を友人としながら、彼がものを食べる場面がまったく出てこない矛盾でした。しかし、手塚はこのことを決して無視しませんでいた(そこが、エライ!)。驚くべきその回答は「動物食堂」というアイデアで、そこでは肉食動物が、別の動物が拾ってきた肉を「物々交換」で手に入れていたのです(たしか、そういう場面があったと思います)。つまり、狩りをやめて、「経済」に参入したわけです。

 私はこの二つの擬人化が、「動物」と「機械」の狭間にある「人間」の在り方の危うさを浮き彫りにしているように思えます。身体能力では「動物」に遠く及ばず、種々の作業能力においては「機械」の敵ではありません。擬人化は、その「動物」と「機械」による「人間」の浸食を表現しているとも、言えるでしょう。

 今やレオは、人間から「遺産相続」を受けるペットや、裁判で「人権」を認められたオランウータン(2014年、アルゼンチン)として、ある意味現実化していますし、IT技術の劇的発展でアトムの登場は時間の問題とも言われています。
 
 私が子どもの頃からどうしても擬人化に馴染めなかったのは、「人間であること」「自分であること」に対する信頼感が、根本的に欠けいていたからではないかと、いまは思っています。