「後期」になっていよいよ元気な高齢者と、最近疲れ気味の住職の会話。
「和尚、あの世ってあるのかね?」
「へえ、いよいよ檀那も心配になってきたか」
「そういうわけでもないけどさ、あんたはホントのところ、どう思っているのかと、ちょっと思ってさ」
「あー、だいじょうぶ、檀那はだいじょうぶ」
「なにそれ? えらく簡単だね」
「だって檀那、いままで生きてきて、他人と比べて特に善いことも悪いこともしてないでしょ。人並みでしょ」
「うん、まあ」
「だったら、死んだ後何が起きても、その他大勢と一緒だからだいじょうぶ。あの世があれば、そこに親兄弟や友達のほとんどがいるよ。みんなと一緒なら地獄も極楽もこの世と変わらないさ。あの世がないなら、ぜんぶ終わり、それまででしょ。心配はムダ」
「あんたねぇ・・・」
「でも、そうでしょ」
「そんなこと言うけど、和尚、やっぱり信心とか持ってるかどうかも、大事なんじゃないの? あんた、そういうこと教える立場でしょう」
「檀那、それ、生きている間に信心していたほうが、死んだ後、しないより結構なところに行けるとか、そういうこと?」
「まあ、そんなようなこと」
「あのねえ、人の信心に応じて待遇を変える神様仏様なら、要は取り引きする神様仏様でしょ。それじゃあ選挙の票と引き換えに利益誘導する政治家と一緒じゃん。だったら、この世もあの世も同じ。あの世でも工夫次第で、いくらでも取り引きのしようがあるさ」
「和尚、あんた、ふだんそんな罰当たりなこと考えてんの?」
「檀那、そういうけどねえ、この世であの世のことをアレコレ言っていることにかけては、『信心深い』神父や和尚の話も、オレの言い草も変わらないぜ。あっちが信心なら、こっちの言い草も信心さ。罰当たりなら、あっちもこっちも罰当たり」
「よく言うよ」
「罰当たりも信心のうち、さ」