恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「考える」を考える

2012年07月20日 | インポート

 人が思考する場合に基軸となるのは、因果関係を設定することと、比較対照を行うことでしょう。このとき、忘れてはならないのは、その思考を規定している条件であり、そう考える目的あるいは意志、もっといえば欲望を評価することです。

 昨年の大震災と原発事故の後、原子力関係の某学者が、原発に対する厳しい批判を受けて、「事故と言っても、死者がでたわけではない(だから、それほど大騒ぎしなくてもよい)」という趣旨の発言をしたと、新聞が報道していました。

 もしこれが事実だとすると、いわゆる「専門バカ」の典型例だと思います。つまり、彼はその結論を出すにいたった思考の前提条件について、まるで無自覚なのです。

 この発言は、結果的に「事故の悲惨さや深刻度は、死者の数で計られる」ということを、比較の基準として選んでいます。まず問題なのは、この基準選択が妥当かどうか、です。

 これに対しては、たとえば、「事故の悲惨さや深刻度は、その事故が起こった結果、居住不可能になった地域の広さで計られる」という立場をとることができます。

 この立場からすると、「交通事故で人が死んだからといって、事故地域一帯の住民が丸ごと我が家を失うことにはなるまい(だから大したことはない)」、という話にもなるはずです。

 このどちらが比較基準として適当で、事故の悲惨さや深刻度を正確に計測できるか? この問いに理屈や論理で決着がつくことは、決してありません。すなわち、どちらの基準も適当とは言えず、また、条件の取り方によっては、どちらも適当です。

 である以上、そもそも原発事故と交通事故の悲惨さを、事故の質的差異を無視して、量的に比較して結論を出すという行為自体が無理で、間違っているということになるでしょう。

 その無理を敢えて冒すのは、理屈以前に意志や欲望があるからであり、件の学者の場合は、実に言うまでもなく、「原発を維持したい」がそれに当たります。

 およそ論理は主張の道具であり、主張の元はと言えば欲望です。論理の整合性だけ見ていても、論理の妥当性はわかりません。実に当たり前ですが。