恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

それだけのこと

2012年06月30日 | インポート

「あなたは『悟り』を否定しているそうですね」

「違います。巷で『悟り』として語られることは、およそ無意味であり、かといって語られなければ、それは端的に存在しない、と言っているのです」

「では、なぜ、あなたは坐禅しているのですか?」

「一定の身体技法によって、自意識を解体できることを、実感するためです」

「それだけ?」

「そうです。私にはそれこそが重要です。つまり、一定の方法で解体できるなら、『私である』という事態(自意識)は、それとは別の特定の行為様式、あるいは関係形式において構成される制作物だと、実証することになるからです」

「すると、坐禅によって解体した結果現れる心身状態に意味があるとは考えないのですね?」

「考えません。自意識を解体した結果の状態そのものに意味があるというなら、別に坐禅なんて面倒なことをする必要はありません。それは薬物によってでも、セックスによってでも、ギャンブルやスポーツによってでも、作り出せる状態です」

「あなたが他の瞑想法に興味を示さないのは、それが理由なんですか?」

「おっしゃるとおりです。たいていの瞑想法は、何らかの心身状態を特別視して、そこに到達することを目指し、そのこと自体に価値を与えています。目の前に光が常に現れるようになることを目的として瞑想する方法があるらしいですが、それが一体どうしたというのでしょうね」

「あなたの自意識が解体したと言う状態は、どんな感じなのですか?言葉で言えますか?」

「もちろんです。印象は記憶として残りますから、その限りで言うことはできます。たとえば、目は開いているのですか、何かを見ていません。何もかもが一度に見えている状態になります。何かを聞いているのではなく、何もかもが聞こえているような状態になります」

「それは『無我夢中』とか『忘我恍惚』と表現される状態とは違うのですね?」

「まったく違います。感覚が冴えわたって、見えていること自体を見、聞こえていること自体を聞く、とでも言いたくなります。それがさらに亢進すると、すべての感覚が点滅するような、波立つような状態になり、見る者と見られているもの、聞く者と聞こえてくるもの、というような通常の認識の枠組みは消失してしまいます」

「それは、そのような状態を観察している、ということではないのですね?」

「観察しているなら、要するに観察している『私』が保存されているわけです。要は、それが解体されて、観察も不可能になる状態が現出するということです」

「どうしてそれを『悟り』と言わないのですか?」

「ただそれだけのことだからです。むしろ私が伺いたい。なぜそれを『悟り』と呼ぶ必要があるんですか?」

「では、なぜ、解体なんてことをするんです?」

「だって、ある制作物が機能的にあまりに不具合なら、解体して作り直せばいいじゃないかと、なるじゃありませんか」

追記:次回「仏教・私流」は、7・8月はお休み、9月26日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。