恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

経験の意味

2009年02月21日 | インポート

 今から25年あまり前、私が修行道場に入門したての頃の話です。

 生来体力に乏しく、不器用だった私は、生活環境や人間関係が激変した厳しい状況にいきなり飛び込んで、たちまちケガはするわ、病気になるわで、最初の半年は散々でした。

 特に脚気。今はなる人が珍しいような、栄養不良が原因のこの病気は、当時の道場では(現在はかなり改善されているはずです)、修行僧の通過儀礼のように、ほぼ全員が一度は罹っていました。ですから、指導に当たる先輩たちは、誰も大して心配していませんでした。膀胱の筋肉が緩んで失禁するくらいになって、はじめて病院に連れていってもらえたほどです。

 ただ、人によって症状の軽重があり、私の場合はお察しのとおり、重症でした。両足が腫れ上がって感覚がなくなり、熱湯が足の甲にかかっても気がつかず、かなりの火傷をしましたし、最後には右手と右足が完全に動かなくなり、さすがに修行どころではなくなり、病院送りにされました(ちなみに、先輩たちは私が復帰してくるとは誰も思わなかったらしく、道場に帰ってきたときには、「ゾンビ」というあだ名を付けたのだそうです)。

 修行の入り口で大挫折です。私は病室で隣の老人の寝返りの気配を妙に意識しながら、とめどなく考えました。

「手も足も、まったく動かない。治るだろうか・・・。治らないかも・・・・。だが、せめて右足だけでも治らないだろうか。右手一本は仕方ない、あきらめる。足さえ動いて坐禅ができるようになれば、必死で頼んだら、道場に残してもらえるかもしれない。なんとか足さえ・・・」

 倒れて2日後、師匠が見舞いに来て、あまりの惨状に(身長180センチ以上なのに、その時は体重50キロを大きく割り込んでいました)「帰るか?それでもいいんだぞ」と言われ、その翌日は両親までやってきて「もう帰って来い!」と言われました。しかし、いまさら帰れるはずはありません。「大丈夫! やれます!!」 以外、言える言葉もありませんでした。まだ手足は丸太のようにピクとも動きませんでしたが、それでも私は回復に一縷の望みをかけていました。

 ですから、一週間を過ぎた頃、右手の指先にかすかな痛みを感じたとき、本当に嬉しかったです。後にも先にも、痛くて嬉しかったのは、その時だけです。「感覚が戻った!治るかもしれない!!」。

 それから薄皮を剥ぐように感覚と運動能力が戻ってきて、約一ヵ月後、退院することができました。ただ、今でも、両足の指先には感覚がないところと、あっても非常に鈍感なところが残ってしまいました。

 実は、この経験は、その後私が僧侶として生きるうえで、決定的に大切なものになりました。

 人は時として、「命をかける」とか、「一身を捨ててがんばります」などとを言います。ですが、暗殺の危険を取りざたされるオバマ大統領クラスならいざしらず、この言葉を額面どおりに考えている人はまれでしょう。これは意気込みや覚悟を表す比喩として、大抵は使われるし、言われた人もそう受け取るでしょう。

 命とはとても言えませんでしたが、私があの病室で、「右手一本は仕方ない」と思ったことは、本当です。当時はヤケクソになってそう思ったのかもしれませんし、回復したわけですから、今となってはただの笑い話ですが、たとえそうであっても、あの夜、腕一本を修行の犠牲にする覚悟をしていたことは事実です。

 同じ覚悟が二度決められるかは、わかりません。出家したての、ウブで身の処し方もわきまえない、あの頃の自分だったから、そう思えたのだと言われれば、違うとも言えません。

 でも、その後、何か迷ったり、気持ちが萎えそうになったとき、何度か私はあの夜を思い出して、わが身を励ましてきました。私が自分の財産だと心底思えることは、大抵はそういう経験です。

 けだし、人にとって大切なのは経験自体ではなく、自分の生き方の中で、その経験をどう解釈し意味づけるかということでしょう。

追記: 次回の講座「仏教・私流」は、3月18日午後6時半より東京・赤坂の豊川稲荷別院にて行います。