檀家さんの法事に行きました。親戚も大勢集まった法事で、つつがなく読経も終わり、座を改めてお斎(とき・食事の供養)となりました。
宴も半ばとなり、お酒も適当に行き渡って、施主の檀家さんも上機嫌で客座をまわってお酌をしていました。そのうちに私の前までやってきて、急にしみじみとした顔になると、こんな話をしてくれました。
「いやあ、方丈(住職のこと)さん、今日はありがとうございました。親戚もいっぱい集まってくれて、祖父さんも喜んでいると思います。
祖父さんは私が小学校の頃に亡くなったんですが、本当に穏やかな人でね、孫の私はずいぶんやんちゃでしたが、ほとんど怒られたことはありませんでした。でも、ただ一回だけ、忘れられない思い出があります。
ある日、私は例によって家中を走り回って遊んでいて、座敷に駆け込んだ拍子に躓いて、床の間に大事そうに置いてあった何かの壷を割ってしまいました。しまったと思いましたが、子供のことですから、素知らぬ顔をしてそのまま座敷を出て遊び続けていると、はたして、祖父さんに見つかってしまいました。
私は祖父さんに手を引かれて座敷に連れ戻され、
『お前がやったんだろう』
私はとっさにシラを切りました。
『知らない』
『嘘はダメだ』
『本当に知らないもん!』
『では、ここでしばらく思い出したらよかろう!』
そう言うと祖父さんは、私を座敷の床柱に着物の帯でぐるぐる巻きに縛り付けて出て行ってしまいました。私は情けないやら悔しいやらで、大泣きに泣きましたが、さすがに泣き疲れた頃、様子を見ていたらしい祖父さんが入って来てこう言いました。
『お前は誰も見ていなかったと思って嘘をつくのだろうけど、違うぞ。たった一人だけ、見ていた者がいるんだぞ。お前、誰だかわかるか?』
信心深い祖父さんのことだから、どうせ神様か仏様みたいな話だろうと思って、ふて腐れて黙っていると、普段聞いたことのない大きな声で、祖父さんは言いました。
『それはお前だ! 誰が見ていなくても、お前は見ていた!』
ねえ、方丈さん。私には忘れようにも忘れられない大事な思い出でね。祖父さんには感謝しているんですよ」
この檀家さんは、いま弁護士です。聞いて、私はよい話だなあと思いました。と、同時に、ちょっと切なくなりました。
見る自分と見られる自分。この断裂こそが自己が自己であることの意味です。それは時に善と悪の選択を迫って、自己が自己である限り、重荷であり続けるでしょう。
追記: 恐山の参禅についてお尋ねがありましたので、お答えします。初日の入山時間は午後4時をお守り下さい(オリエンテーションの都合です)。遅れた場合、入山宿泊はできますが、参禅プログラムに参加できない場合があります。なお、翌日の終了は午前10時ごろの予定です。