ある人から、あなたは絶対の真理や正義を信用しないと言っているが、ならば真理や正義以外に何を判断の根拠にしているのか、と尋ねられました。
実際私は、「真理」も「正義」も一定の条件のもとでしか、つまり時と場合によってしか通用しないだろうと考えています。だからと言って、それを無視して物事を判断しているわけではありません。通用する条件を慎重に考えながら、それらを使おうと努めているのです。
ただ、私が現実に自分の身の振り方などを判断するときに頼りにしている基準は、真理や正義などではなく、「そうせざるをえない」のかどうか、「もはやそうする以外にしかたがない」かどうかであることが多いと思います。
なんだか「主体性」のカケラもない、情けない話ですが、そのかわり、こうしてなされた決断は逃げ場がないだけに強い。私の出家は、まさにそうでした。
ただ、この考えを突き詰めると問題なのは、人はみな「死なざるをえない」ことは確かなのに、「生きざるをえない」とは必ずしも言えない、ということです。つまり、この考え方に従えば、死のほうが生よりもはるかにリアリティーが高くなってしまうわけです。
私はここに宗教の持つ根源的な課題があると思います。思うに、人間は、意識の底辺では、生よりも死のほうをはるかにリアルに感じているのでしょう。したがって、強度が常に不足しがちな生に、「意味」や「価値」を注入することで死に拮抗する力を与えることを、宗教は自らの役割としているのではないか。私はそう思うときがあるのです。
お知らせ。次回の「仏教・私流」は2月14日(木)午後6時半より、赤坂の豊川稲荷・東京別院にて行います。