恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

自分であるという困難

2006年11月27日 | インポート

 新著を出版したタイミングが、「いじめ」問題の深刻化とぶつかったせいか、いくつかインタビュー受けたりすると、申し合わせたようにこの問題についての意見を求められます。

 問題は様々な要因が絡み合い、簡単な解決法を即席に提示できるようなものではないでしょうが、ここで私は、いじめる側について考えていることを、若干書いておきたいと思います。

 私は、おそらくいじめや、あるいは差別という行為は、大変残念なことながら、完全に根絶することは困難だと思っています。もちろん、個々のいじめや差別は解消したり解決することは可能だと思いますし、しなければなりません。しかし、人間の行為としてのいじめや差別自体を完全に消滅させることは、まず無理だと考えています。なぜなら、それらは「自分」という形式でこの世界に存在せざるをえない人間の根源に喰い込んでいると考えるからです。

 この問題を考えるとき、私がどうしてもこだわってしまうのは、「自分は自分でありたくて自分であるのではない」という事実です。根源的に、私たちは「自分であること」を他者から負わされ、課せられたのです。物理的に私たちは「生まれた」のではなく、「産み出された」のであり、命名という一方的な行為で、「自分」という刻印を押された存在なのです。

 私たちが「自分であること」を決意とともに引き受けたのではなく、「自分にさせられた」結果「自分である」存在なら、ここにはすでに原理的な存在の困難、生き難さがあるはずでしょう。この存在に耐え、これを引き受けるには、そうするに値する何らかの理由、根拠が必要とされるでしょう。それが「自分であること」を支える力なのです。

「自分であること」は最初からこの力をめぐる闘争に投げ込まれているのです。このとき、いつかどこかで、「自分であること」それ自体、ただそれだけのことを、無条件で他者から肯定される経験をしていないと、闘争に踏み込む基礎体力が備給されないと、私は思うのです。「自分」を開始したのが自分ではない以上、その肯定も他者からされるしかありません。もしその肯定が不十分だと、何らかのもので代償するしかないでしょう。

 私は、いまの「いじめ」問題の経緯をみていると、思春期という、ようやく「自分であること」の闘争に踏み込んできた世代の苦難を思わざるをえません。「自分」という苦役を、他者の排除で代償するしかない孤独を感じざるを得ません。「いじめ」も「差別」も、それをする側は、必ず自分の行為を正当化する理屈、理屈にならない理屈を準備し、相手に「いじめられる理由」「差別される理由」があると主張します。なぜか。なぜ理屈を主張するのか。それはこれが、根本において自己正当化、すなわち根拠をめぐる闘争だからではないでしょうか。

「いじめ」や「差別」を処罰し禁止するということも、無論必要な対策でしょう。しかし、より深刻なのは、「自分である」という、苦役ともいうべき困難に立ち向かう力をどう養うかを考えることだと思うのです。そのとき必要なのは、他者の「愛情」ではなく、この困難に対する共感であり、この苦役へのいたわりであり、そしてそれに立ち向かうものに対する敬意ではないでしょうか。

 ならば、それを供給できる余裕があるのは、ある程度この闘争を経験してきた世代、つまり「大人」でしょう。すなわち、私は、当面、「いじめ」の問題に対処する手段として、学校をなるべく大きく開いて、なるべく多様な大人が学校には入り込み、関与できるようにすることが有効だと思います。そしてその大人に試行錯誤の自由を認めるべきでしょう。「正しい生き方」「正しい人生」を知っている大人など誰もいません。教育するということは、常に冒険なのです。間違えることを前提に、間違ったときの対策を考えながら、大人は「自分であること」の困難を若い世代と共にし、実例を示したらどうだろうと、私は思うのです。