草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

佛意に随つて死せんと思ふ心(『正法眼藏随聞記』)

2024年08月08日 | 仏教
 自分だけではなくて、知り合いの多くも何らかの病気を持っています。そんな年齢になった方と思うと、淋しさがなおさら募ってなりません。団塊の世代が七十代後半になり、徐々に去って行くのを見るのも辛いものです。しばらく会わないでいると、ついつい健康の話になるのは、もう仕方がないことなのです。
 そして、いつしか仏法の書を紐解くようになるのです。僕は心が滅入ったときには、道元禅師の『正法眼藏随聞記(しょうほうげんぞうずいもんき)』の一節を読むことにしています。仏法に疎い僕であっても、信仰者として歩むことに違和感を覚えないからです。心を整理するためにも、仏法の書は僕の生きる上での支えでもあるからです。
「夜話に云はく、古人の云はく、明日に道を聞いて夕(ゆふべ)に死すとも可なりと、いま學道(がくどう)の人も此の心あるべきなり。曠劫多生(くわうごふたしやう)の間いくたびか徒(いたずら)に生じ、徒に死せしに、まれに人身(にんしん)を受けて、たまたま佛法にあへる時、この身を度せずんば、何(いず)れの生(しやう)にかこの身を度せん。たとひ身を惜しみたもちたりとも、かなふべからず。つひに捨て行く命を、一日片時(へんじ)なりとも佛法のために捨てたらんは、永劫(やうごふ)の樂因(らくいん)なるべし。¨¨¨¨ただ思ひきりて明日(みやにち)の活計なくば、飢死もせよ、寒死(こごえじに)もせよ、今日一日道を聞いて佛意に随(したが)つて死せんと思ふ心を、まず發(おこ)すべきなり。しかるとき人は道を行(ぎやう)じ得んこと一定(いちぢやう)なり。」
 日本の仏教は、本来の仏教の教えとはかなり異なるといわれますが、理屈などよりも、ある種の覚悟とか達観とかが優先されるような気がしてなりません。それがまた日本人の潔さと合致しているのではないでしょうか。

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